学校給食のこと | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 30

学校給食のこと

校條 剛

 朝のテレビで学校給食の話題を取り上げていた。神奈川県大磯町の給食が非常に不味いと不評で、児童達の多くが食べ残すらしい。食べ残しはもちろん廃棄するので、学校現場で大量のフードロスが発生しているわけだ。一方、おいしい給食という評判を得ている自治体もあるらしい。その一つ、埼玉草加市の給食担当者たちが、全国大会に臨むことになり、メニュー作りから調理時間まで工夫して奮闘するも優勝は出来ず、優秀賞に止まる。チーフの女性が涙ながらに悔しがる姿に給食に取り組む真剣さを見ることができた。
 名古屋の給食費は全国で一番安いらしいが、安かろう悪かろうの典型で、値段に見合った、とんでもなく不味い内容らしい。河村市長はなんでもかんでも歳費を絞ればいいというタイプの政治家であるが、さすがにこれ以上の締め付けは無理と悟って、4百円値上げをすることに決めたらしい。

 私が小学生のころは、すでに給食が始まっていた。現在のように一カ所の給食センターで地域の学校のすべてを受け持って調理し、時間になるとトラックで各学校に運ぶという集中方式ではなく、各校で「給食のおばさん」たちが調理して、給食当番の児童が大鍋を教室に運び、各自のお皿に配るという自校式だった。
 従って、当時の給食は、学校によってメニューも味も違っていて、どこそこの給食は旨いが、あそこは不味いという風評が立つこともあったはずだ。
 私が入学したのは、東京都杉並区の沓掛小学校だったが、そこでの給食の思い出はまったくない。Oという担任教師が、飛び出た両目の、その白目部分に常に赤い血管を浮かせて、怒鳴ってばかりいた記憶しかない。我々は団塊の最終世代だったせいで、一クラスの児童数が50名以上はいたために、教師はクラスをまとめるのにたいへんだったとは思うが、入学したばかりの児童を不機嫌に叱りつけてばかりの教育というのはほとんど犯罪だ。教師に対して一歩引く気持ちが、この初めての学校体験で醸成されてしまった。
 私はそのあと二年生のときに、兵庫県尼崎市に引っ越してしまったので、杉並の沓掛小学校で給食そのものがまだ実施されていなかったのか、一年生は午前中だけの授業だったのか、亡くなった母親から訊いたことがないので、分からないままだ。

 尼崎は四月からの一学期だけの在籍である。しかも、阪急線園田駅に近い園和小学校では、児童数に校舎のキャパが対応出来ず、午前と午後の「二部授業」だったので、毎日、午前だけ学校に行っていた。午後は私が座っている机を別の児童が使うことになる。
 小学校二年の二学期から神戸市灘区に引っ越しをした。随分と頻繁に引っ越しをしているが、父親が会社を変わったせいではない。大阪支社から神戸支社に異動したということなのか、立派な社宅があり、学校の環境に恵まれた神戸のほうがよかったのか、これも母親に尋ねたことがないので、不明のままである。尼崎と神戸は隣同士の距離であるから、引っ越しする理由が理解しづらい。
 神戸で通ったのは、六甲山の麓にある高羽小学校。ちなみに、「高羽」は「たかは」と読む。神戸市のなかで、もっとも学力が高い公立校という評判で、区域外からの流入者が非常に多かった。定期券を首から提げて、国鉄(JR)や阪急で通ってくる児童が相当数いたのである。かくいう私も区域外の「越境者」であって、山手幹線という国道並の広い道路を渡って、長い坂を歩き、阪急の線路下のトンネルをくぐり、また急坂を登ってやっと学校に着くのである。この小学校の噂を聞いた「教育ママ」のハシリだった母親が引っ越しを主張した可能性は高い。

 この小学校の給食は私の四年足らずの給食歴の最低レヴェルであった。うっすらと美味しかったメニューが思い浮かぶのは「揚げパン」だ。ロールパンを揚げて、砂糖をまぶした一品でだが、それ一つということはないので、オカズがあったはずだが、野菜スープのようなものだったのだろうか。揚げパンは全国共通のメニューだったようで、名古屋にも東京にもあったように記憶するが、それも霧のなかである。
 何が一等不味かったかというと、豆腐とゴボウの煮物であった。タマネギも入っていたかもしれないが、それらを醤油で煮込んだ単純な料理である。当時は、炭水化物はご飯ではなく、すべてパンである。必ず脱脂粉乳が添えられる。この三品を口のなかで咀嚼したときの味覚について想像してほしい。脱脂粉乳とゴボウ、豆腐・ゴボウとパン。この三品では味のハーモニーを整えるのが難しいことは実際に食べてみなくても想像できるだろう。人間の舌は、こういう不可解な取りあわせに慣れることはない。
 このエッセイの冒頭でフードロスのことを書いたが、給食は「完食」が絶対的な原則だったので、残した分は持ち帰らなくてはならない。食器も毎日自宅から持参する方式だったから、豆腐の煮物は、金属の食器二枚を合わせて、零れないようにし、首から下げる食器入れ用の布袋に仕舞って持ち帰るわけだ。料理の汁が浸み出して、食器袋の白い布地がすぐに醤油色に染まる。残飯とこの染みついた袋を母親に差し出すときはひどく叱られたはずなのだが、一切記憶に残っていないのは、幼かったためだけではなく、思い出したくないほど嫌な記憶だったからではないか。そういえば、小学校に通っている兄弟三人分の給食費もかなり負担だったようで、集金袋を渡すたびに、母親が不機嫌だったことを思い出す。
 神戸は美食の町と思い込んでいる人が多いが、少なくとも当時は一般市民レヴェルの民度は低かった。「警笛なくそう」なんて交通標語がまかり通り、日本一の暴力団を生み育てた都市なのだから。

 神戸には二年半ほど住んで、次に名古屋である。千種区の東山動物園に近いところに貸間を見つけたのだ。ここも東山小学校という成績のいい、いい家の子どもたちが多い小学校に通った。この小学校の給食はそのあと戻った東京荻窪の桃井第二小学よりも上をいっていて、それもそのはず、当時も存在したらしい全国給食コンクールで上位に入る有名校だったのであった。今もこの学校の給食が美味かったという記憶が舌の先に残っている。メニューを具体的に述べられないのは残念だが、うっすらとマヨネーズを使った料理が天国のように美味しかったということを思い出す。ポテトサラダとかマカロニサラダとか、だ。私のポテトサラダ好きはここに原点があるのかもしれない。

 五年生の二学期に再び戻った東京では荻窪駅南側の桃井第二小学校に転校した。ここの給食はよくも悪くも平均点であった。児童も給食も平均点。ただ揚げパンと鯨の串カツの日が楽しみであったことはよく覚えている。 
 私の妻は千葉県銚子市育ちで四歳年下なのに、給食の経験がない。私は東京、神戸、名古屋という人口の多い、いわゆる百万都市を経巡ったために、それぞれの土地で給食という文化に触れることができた。その三つの都市のなかで、名古屋が一番美味しかったということを名古屋市の河村市長に教えてあげたいものだ。