趣味について | honya.jp

閉門即是深山 41

趣味について

ドンドンドンドン、タッタッタッタッ
ドンドンタッタ、ドン、うん、タッ、うん
ドンタッタッタ、タッドンドンドン、ドンタッタッドン
もう少し難しくなると、タッタ(ドン)テッテトットドッドとなる。

たぶん読者は、暑さのせいか、歳のせいで、私が気でも可笑しくなったのだろうと思われるかも知れない。が、これは、れっきとした「ママダ音楽研究所」が出されている「ドラムセットでの基礎練習 1~4」の音符なのだ。いや、音符を私が音に変え、片仮名に直したものなのだ。もし、読者の中に、これからドラムをやりたい方がおいでになったら、おさえ箸か何か棒を二本持ってやってみることをお勧めする。
ドンドンは、大太鼓(バスドラム)で、右の足でペダルを叩き、音を出す。タッタは、スネアと言って股間に挟み込むように置く小太鼓の音でスティックという二本の棒でたたく。よくマーチなどで、肩から斜めに背負っているのもそれだ。テッテは、タムタムの音でドラマーの前に置きスネアより高い音を出す筒のような小太鼓。もうひとつその脇にバスタムがあり「トット」という音にした。ドッドは、フロアータム。タムタムでは、一番低い音を出す。ドラムセットとしてバスドラムに付けられない大きさなので、足を付け横に置く。以上が通常のドラムセットの太鼓の配列で、これにシンバル系列がある。シンバルには、ハイハットといって左足でペダルを押すと、二枚の小さなシンバルが重なりあって音を出す。後は、好みで、大中小、極小のシンバルをスタンドに付け、ドラムセットの廻りに配する。これで、あなたもいっぱしのドラマーになる。なんて言わない。何も、ドラム教室からお金を頂戴してこのブログを書いているわけではない。中に「うん」と平仮名を書いた所は、「四分休符」の意味で、一回お休みといったところだ。

ややこしくなってしまったが、これにはわけがある。以前、本稿でも書いたが私は、学生時代にバンドを組んでいた。そのバンドは、当時流行りのロックを主に演奏していた。当時の先生は、外国のバンド、ベンチャーズやスプートニックスだった。学生バンドのはしりと言ってもいい。昭和30年代後半から40年の初頭であったから、今のように楽器なぞ簡単に手に入る時代では無い。楽器店には、並んでいるがものすごく高価だった。ギターと真空管のアンプでも買えば、今のサラリーマンの給料のひと月分か2ヶ月分は優にした。ベースもキィボードもドラムセット同じくらい高価だった。ドラムセットは、当時名も知れぬメーカーのパールの一番安いものでその価格だったから、プロが使用する舶来品ロジャースやグレッチ、ラディツクなどは、目が飛び出るくらいの値段だったろう。
とにかく我々は、家庭内ローンを交渉で勝ち取り、なんとか楽器を揃えた。まだ、シンセサイザーなどの秘密兵器の無い時代である。
来る日も来る日も練習を重ねた。家庭内ローンの支払いのためには、早くバンドで稼ぎ出さねばならなかった。今のように練習スタジオなどそこらに無かった時代である。が、ついていたのは、先週も書いたように私の家はだだっ広く、音が隣り近所に聞こえない。土曜、日曜は、メンバー泊りがけの合宿状態だった。
時代は、音楽も変わりジャズや進駐軍時代の曲がポップスが衰退し、若者文化を築き上げようとしていた。テレビでは、加山雄三がバックバンドにザ・キングオールスターズを率い、堺正章や、かまやつひろし、井上順が属すザ・スパイダース、沢田研二がいたザ・タイガース、ショーケンこと萩原健一が歌うザ・テンプターズなどが活躍している時代だった。
皆、アマチュアから少々上手いだけでプロとして活躍できる時代だったのだ。
私の青春時代、18歳のころは、そんな時代だった。

この時代のほんの僅か前、東京オリンピックの前では、都電や都バスが庶民の主な移動手段だった。この頃の爺どもは、国鉄を「省線」とよび、タクシーを「円タク」とよんでいた。商店は、今のように便利なコンビニなど無く、7時前には、鎧戸をおろした。干物屋、酒屋、菓子屋などだ。レストランは、銀座などの繁華街にしか無く、真夜中までやっている店など、幾つかしか無かった。東京中、ヴェニスのような運河が縦横にあり、神田川の大曲から飯田橋、御茶ノ水辺りには、水上生活者の舟が連なって舫<もや>っていた。自動車は、大きくてもせいぜい1800CCで、庶民を充てこんだパブリックカーすなわちパブリカなどが、走り出していた。高速道路は、いまだ無く、車には、皆団扇などが置いてあった。原宿や表参道は、喫茶店が一軒、中華店が一軒、海外から入ってきたばかりのピザの店、焼肉の店が一軒ずつくらいの暗い道で、どこに車を停めても咎められなかった。銀座などの裏道も同じで、「駐」の文字にななめ赤線を引かれた駐車禁止の角看板の前に停めても、持って行かれることも無く、切符をきられることもなかった。
良い時代だった。いや、ちょうど私が18歳のころが、その良い時代と現代の境だったかも知れない。とにかくやっと観光で海外に行くことが少し前に許された時代だった。しかし、1ドルが、360円だったから、プロペラ機でハワイに行くにも、今の初任給の5倍はした。

そうだ、今このブログを書いているのが午後4時だから、5時には、ドラム練習のスタジオに入らねばならない。ドラムの先生が「このへんが、一番難しいところで、ほとんどが辞めてしまうんですよ」と先の練習で言っていた。「辞めてたまるか、これが、爺には面白いんだ!ゴルフだって、練習をサボったから上手くならなかった。意地だ!リハビリだ!山でも、谷でも、壁でも、何でも来い!爺は強いぞ!」でも、右足の脹脛<ふくらはぎ>が妙に痛てぇ~!
ドンドンタッタ!