怪談について | honya.jp

閉門即是深山 40

怪談について

ラフカディオ・ハーンの短編「怪談」に『耳なし芳一』という物語がある。
これは、けっこう怖い。怖すぎて鼻血が出そうになるくらい怖い。
ラフカディオ・ハーンは、本名パトリック・ラフカディオ・ハーンといって、1850年に生まれたギリシャ人である。長じて、新聞記者や小説家になり日本びいきで有名だ。日本の研究者となって名前まで日本字でつけたくらいの人であった。小泉八雲と書けば多くの読者は頷かれよう。

この『耳なし芳一』をお読みになっていない読者のために、かいつまんでご説明すれば「昔々、下関に阿弥陀寺という寺があったそうな。その寺は、安徳天皇や平家一門を祀った寺じゃった。そこに芳一という盲目の琵琶法師がいたという。その芳一に武者の霊がとり憑ついたそうな。目の不自由な琵琶法師の芳一は、その体にぎっしりと経文を書いたそうな」怖い、これを書いているだけで怖い。「読者」と書こうとして「毒者」と書いてしまった。私の手が震えている。「どくしゃ」を変換したら「毒者」が出てしまったのだが、それも怖い。もうこれ以上は、書けないくらい怖い!先を知りたい人は、書店で小泉八雲の『耳なし芳一』をくれと言って欲しい。
先は、本でお読み頂くとして、ヒントくらいは出しておかねば卑怯者の謗<そし>りをうけよう。私は「怖がり」であるが「卑怯」ではない。しかし、タイトル『耳なし芳一』を考えれば、賢明な読者はなんとなく判るだろう。判れば、判ったで怖い。私は、70歳に近いが、この歳で電気を点けておかねば怖くて眠れない。そのくらい臆病で、「お化け」や「幽霊」、「霊」の話が怖い!

それには、多少の訳がある。まぁ、お聞きなせい。
私は、戦後のすぐの年に祖父の終の棲家となった豊島区雑司ヶ谷で生まれた。この場所は、南に護国寺の墓地、西北に雑司ヶ谷墓地のあるところで、両墓地は、ともかくデカい。もちろん塀添いに墓地があったわけではない。両墓地まで、徒歩で3~4分かかる。その間も家々が連なっているから、どちらの墓からお化けが出てきても、そんな距離は歩きたくないだろう。とくに、「お化け」は、足が無いのだから。怖いのは、墓地の近くだからではない。多少は、怖かったが……。

昭和12年に、祖父・菊池寛が建てた家は、かなり大きかった。坪数も500坪は、あったと思う。そこに、二階建の洋館と日本式の離れがあった。当時、売れっ子作家で、文藝春秋社の社長、大映映画の社長、文藝家協会の会長などをしていたひとだから、お客も多かった。女中さんたちも常時7~8人くらい居たと聞いた覚えがある。客間は、互いがバッティングしないように配慮され、3つの応接間と大広間があった。大広間の隣に接して家族の居間がある。お客のために食事や茶をつくる台所は、民宿の厨房並みである。また、これも民宿を彷彿させる大きな五右衛門風呂があった。2階は、祖父の仕事部屋と隣接するベッドルーム。そして、祖父専用の洋式の風呂場がある。現在、よくショウウィンドウに飾ってあるような白い琺瑯<ほうろう>のバスタブに用便器が備えてある。昭和初期だから、そんな設備は、東京のホテルにしかなかっただろう。外に出られるバルコニーもついている。祖父の部屋の隣に、床の間付きの8畳の和室が3部屋、洋室が2部屋あった。洋館だが、中は、和洋折衷であった。階段は、西側と南側に2つある。今現在は、地下鉄も通り便利な場所になったが、このあたりは、陸の孤島であった。毎日、人力車で来る出版社の編集者などが泊れるように造ったに違いない。母屋の洋館には、12室部屋があった。また、玄関も広く、今私が住むマンションの部屋がすっぽり入るくらいの大きさだった。その部屋々を繋ぐ廊下や各部屋に付く旅館のような板敷を考えると、デカかった。江戸川乱歩に出てくる洋館、フランケンシュタインや狼男の出てくる館を思い浮かべていただきたい。その洋館に長い渡り廊下で繋いだ2階屋の和風の離れがある。その離れも6部屋の間取りであった。
庭は、さらにデカかった。祖父が急逝してから庭師も呼べなくなり森と化していた。たしか3本のヒマラヤ杉があった。名も知れない大きな樹木が伸び放題にあった。その樹木を縫うように、小さな木々、苔、ドクダミ、ぺんぺん草など伸び方題だった。夜になると、風に吹かれた枝がすれる音がする。鍵の壊れた木戸が、キーッと鳴く。護国寺から来て巣くった鳩が、ホーホ~と啼く。

私は子供時分、その巨大で死人のような館の離れで、親子3人だけで暮らしていた。そのころ父は、東野圭吾氏の作品で現在流行っている人形町の映画館の支配人をしていた。テレビなぞない時代だから、映画が庶民の唯一の楽しみだった。父の帰りは、きまって12時過ぎだった。子供は、8時には寝なければ叱られた時代だった。母は、もともと松竹の映画のニューフェイスの女優で、戦争が激化したため、映画界を諦めたひとだったから、戦後の復興で元気が出たためか、子供をほっぽらかして俳優座に入って舞台女優を目指した。夜は、ほとんど居なかった。私は今で言う「鍵っ子」だった。夕暮れになると、戸板の雨戸を閉め、ひとりで食事をし、寝室に鍵を閉めた。母屋の洋館は、無人で電気も点いていない。隣近所とは、離れていて、樹木に覆われ、光など見えない。私は、常に恐怖に慄いていた。電気を点けても、嵐で戸板、木戸、木々の呻きに耳を塞いでいたのだ。

ところで、毎年の行事、高松市と菊池寛記念館の催しものがある。今年の菊池寛記念館第23回文学展は、7月26日(土)~8月31日(日)に高松の菊池寛記念館があるサンクリスタル高松4階の企画展示室でやる。展示品は、夏目漱石、泉鏡花、芥川龍之介や室生犀星、佐藤春生、太宰治、谷崎潤一郎各氏の原稿が並ぶらしい。私は、オープニングセレモニーに出席せよ、といわれている。催事の題名は、えっ、何だって?
『怖くて不思議な文学展』、怖い!鼻血が出た!助けて~!それでは、「毒蛇」さま、これにて!