66歳のサックス・レッスン | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 14

66歳のサックス・レッスン

校條 剛

 音楽については複雑な思いがずっとありました。
 小学校のときに東京、神戸、名古屋など五回も転校したためか、音楽の基本的な教養を学ぶ機会がなかったようです。小学校五年の二学期から東京の小学校に転校して、初めて音楽の授業が担任教師から音楽専門の先生に替わることになりました。さすが東京というべきなのかどうかは分かりません。私が在学した神戸や名古屋の小学校でも五年生になると音楽は専門の教師になったのかもしれませんが、少なくとも五年生の一学期までは、専門の教師の教えに触れてはいませんでした。
 
 東京の小学校の音楽の時間では、楽典という楽譜を読むための教理をさも当然のように語り始めたので、びっくりしてしまいました。それまでは、たとえば「富士の山」とか「牧場の朝」とかいわゆる文部省唱歌を歌うのが音楽の時間であって、楽典などつゆほども習った記憶がなかったのです。
 4分の4拍子を「強・弱・強・弱」という拍子で演奏するのだと手拍子で示されます。最初の1拍が「弱」から始まるときもあり、それを「弱起」と呼ぶのだという知識はなぜか強く記憶に残りました。
 
 中学校のときはどうだったかというと、ほとんど記憶がありません。かろうじて唯一記憶が残るのは、都立高校を受験しようというときに、有名な楽曲の楽譜の冒頭4小節を暗記する必要があったということです。現在は知りませんが、当時都立高校の試験には音楽まであったのです。音符が読めれば、たちまちメロディーがつかめて、たとえばハチャトゥリアンの「剣の舞」の有名な一節であることが分かるはずですが、最初から苦手意識がはびこっている私の感情は、楽譜を読み取ろうという気持ちから逃げる一方でした。
 
 楽典という音楽の基本構造への苦手意識と同時に、中学校のときに友達が聴かせてくれたドボルザークの「新世界」交響曲をきっかけにクラシックファンになったのは不思議と言わざるをえません。私は小遣いを貯めて友人のLPと同じレコードを買いました。レナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルハーモニックの演奏で、高性能のスポーツカーに乗せてもらったらかくやと思えるようなドライヴ感が凄かったためでしょう、学校では音楽が苦手、所持を義務付けられたリコーダーもろくに吹けなかったのですが、こと音楽を聴くほうには開眼したわけです。三年のときには、同級生のクラシックファン同士で、お互いのLPを持参して、聴き比べをするような交流も発生していました。そのときの仲間の一人は、宮崎で医院を開業する、今も一番親しい友人で、メールで誰それのCDがいいとか、相変わらず言い合っています。
 
「レコード芸術」を読み始めたのもそのころで、宇野功芳氏の批評に接したのもこの雑誌のなかでです。宇野さんからは、批評の姿勢、とくに情熱の作用について学んだ気がします。その宇野さんがオーケストラの指揮も執るようになり、何年かまえには、東京で「シンフォニア・エロイカ」の実演を聴き、それがあまりに面白かったので、昨年2015年の7月に大阪で「第九」を聴かせてもらいました。80歳を過ぎても元気だった宇野さんが、今春、突然逝去されるとは思ってもみませんでした。半世紀にわたるお付き合い(私のほうからの一方的なものですが)に感謝感涙です。

 高校のときからはビートルズからほかのロック、また当時はやりのフォークなども結構熱心に聴いていて、音楽が人生を支える力となったことは今の若い人たちとおんなじでした。
しかし、相変わらず楽典については、ときに参考書を買ってはみるものの内容についていけず、放り出したままでした。だからというか、楽器をいじるということは考えたことがありませんでした。自宅にピアノもずっと置いてあったのですが、作家の大岡昇平氏が50歳過ぎてから、ピアノを習ったという情報に慰めを見出しているだけで、キーに触ることもなく過ぎていきました。

 新潮社入社当時、執筆者と会食したときに、若い人ならギターくらい弾けるでしょうと店に置いてあったギターを押し付けられたことをありましたね。ですが、ギターのコードをつま弾いて反戦歌の一つでも歌って見せることもできない青年だったのはまことに情けないことでした。

 そのチャンスは不意にやってきました。
 大岡さんの50歳どころではなく、もう還暦を過ぎて数年という頃合い、京都に単身赴任することになった直後です。ある日、ワンルームマンションのポストに音楽教室の案内チラシが投げ込まれていました。「河原町夷川上る」のワタナベ楽器店の宣伝チラシでした。ギターやボイストレーニングのほかにサックスの四文字が目につきました。「入会金無料」とか「体験レッスン」というような文句に気を惹かれたのでしょうか。大学への往復、筋トレのためのジム通い、自炊洗濯の毎日に潤いがほしかったのでしょうか。体験レッスンをとにかく受けてみようとまことに軽い気持ちで行ってみました。

 楽器店は楽器も用意してくれていて、レッスンを申し込んだあとも引き続き毎回貸してくれるというのは好条件でした。もちろん、マウスピースとリード、ストラップは購入しなければなりません。
 先生は、音楽学校の学生程度でもよかったのですが、なんと京都在住の女性プロ奏者でした。アメリカにも留学した経験があるれっきとしたプロですから、私のような「高齢者」、しかも中学校のリコーダー以来初めてといっていいほどの楽器音痴が相手でははなはだお気の毒です。
 レッスンを受けることを決めた最大の理由は、初めてアルトサックス経験で音が出せたということです。さらにその楽器を練習のときも貸してくれるという条件は魅力でした。また、一人でする練習のときもいくつかある防音室が空いている限り使用が可能で、それも月謝のうちといいます。これで、やらない手はありません。
 実は一番心配だったのは、マウスピースが前歯に当たるかどうかでした。私は数年前に(多分、糖尿病から来た)立ちくらみによる前倒で、上の前歯を二本損傷していて、かろうじて神経は残っているものの、紙のように薄くなった歯の裏を樹脂で固めてなんとか見栄えだけ維持しているのです。前歯を使っての食事はご法度ですし、上下の前歯で固いものを挟むのはさらにいけません。ですから、硬いマウスピースが前歯に当たるとすると、もう一生サックスは諦めざるをえません。やって分かったのですが、サックスの吹き方では上の唇を折り曲げて、マウスピースの口を挟み込むものの前歯に直に当てることはありません。どうやら、心配はなさそうでした。

 ところで、なぜサックスだったのでしょうか。サックスはクラシックではなじみが薄い楽器ですから、CDの一枚も持っていません。サックスに馴染むのは、ジャズやポピュラーミュージックのほうであることは説明の必要もないでしょう。クラッシックファンである私がサックスをやることに疑問を抱かれるかもしれません。
 実は、意外とサックスの実演を聴くチャンスが多かったことに思い当たります。嵐山光三郎氏主宰の宴会で中村誠一氏の実演に二回接していますし、大学の同級生が開いた日比谷の「むつ新」という中華屋の忘年会でも金剛督氏のサックスに接しています。街頭で管楽器バンドが実演していると、必ず足を止めて聴き入ることもたびたびだったことも思い出します。
 トランペットの音出しのたいへんさは通販で買ったミニトランペットで懲り、クラリネットは実際に習っている人から難しいと聞き、モーツァルトと同じでフルートは好きではありませんでした。オーボエが好きだったのですが、町場の音楽教室では扱うことはまずありません。まあ、それやこれやで、サックスなんですね。

 個人レッスン、一年が経ちました。亀の歩みとはいうものの、確実に手わざは上達し、知識も増えています。とはいえ、亀の歩みには違いありません。単身赴任を終えて、東京に戻るとレッスンも練習もこれほどスムーズにはいかないでしょう。書き忘れましたが、私のワンルームマンションから、ワタナベ楽器店まで、徒歩10分、自転車だと2、3分という近距離です。東京の自宅ではありえない立地なのです。
 要するに、京都の中心部に住んでいるのでサックスを始められたということなんですね。こうして、東京に帰りたくない理由が一つ、二つと増えていくのです。