武士から儒者に、そして | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 467

武士から儒者に、そして

いや~ぁ、大げさなタイトルを付けてしまった!確かに、私の家は藤原を継いでいる。
藤原鎌足から13、4代になった時には、大宰府の荘官を務めていたらしい!その男には、4人の息子がいて長男が西郷、三男が菊池を名乗った。それも直ぐに菊池を名乗ったわけではない。最初のころは、藤原菊池だった。苗字としては、ちと長すぎる。今も昔もひとの感性は、似ているのだろうか。やがて、藤原を取って捨てた!

長男の西郷の末裔は、林真理子さんが大河ドラマで書いた西郷隆盛(せごどん)である。せごどんも一時、菊池源吾と名乗ったようだ。菊池武士団は、水軍を持ち、強い武士団になっていく。平家、源氏、そして北条に付いた。私は自分の家を「なんと節操の無い家に生まれたのだろう」と思っていたが、鏡を見ると私も節操の無い顔をしていた。

難攻不落の小田原城の城主北条氏直の軍臣の中に菊池七兵衛武宗が居た。その息子菊池武茂は、秀吉、家康連合軍から若き殿氏直を守ろうとしたが連合軍は、216,765名、北条方は、たかが82,000人、多勢に無勢であった。この男は刀を置き、坊さんになり、儒学者になった。儒学者を儒者とも呼ぶ。菊池の家は、儒学特に朱子学を学んだ。

こんなことを書いたのは、儒学とは孔子の『四書五経』特に『論語』からきている概念、孔子が唱えた倫理政治規範の体系化から来たものだろうと、私は考えているからだ。なにせ、四、五世紀ごろの大昔の話である。『日本書紀』には、応神天皇の代に百済から博士大仁(わに)が『論語』を持って渡来したと書かれている。

話は、一足飛びになるが1000年頃、中国、宋代以後のこと、新儒学の朱子学と陽明学が生まれ哲学的になってくる。この朱子学と陽明学が明朝時代に対立する。宋から南宋にかけて、漢民族の中に深く世界観や歴史論を探求する動きが現れた。これが朱子学といわれる儒学の革新運動であると、ものの本には、書かれている。明代には朱子学が皇帝専制政治を支える理念として隆盛を迎えた。中国周辺の朝鮮や日本、ベトナムなどに儒教が広がり、東アジア儒教文化圏が生まれたのだろう!その中でも特に朝鮮においては統治理念としての儒学に留まらず、儒教が民衆生活の規範として定着したようだ。

孔子が作った宗教・信仰の儒教を「どう学ぶか?」学問的に指したものが「儒学」だが、中国の王朝が変わるたびに「変化」していく。朱子学は「儒教の教えをどう実践するか」の学問です。儒学の心のひとつに「人間の心の中に『理』と『気』が鬩ぎ合っている」と説いている。『理』は理屈を指し『気』は気持ちを指しているのだろう。人の心の中は、いつも理屈と気持ちの鬩ぎ合いだというのだろうか。

何か変な方に向いてしまった。よく女性が言う言葉に「貴方の言っていることは解っているわよ、でも私は嫌なの!」男には、まったく解らないフレーズなのです。今度『女性の生理の謎を解く』を編集することになりました!サブタイトルに「知らなかった女性 知らなきゃいけない男性」と付けたいのですが・・・!なんで小難しくなったのかな