スペイン風邪と新型コロナ | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 445

スペイン風邪と新型コロナ

8月25日付のNHKの統計を見ると、新型コロナで亡くなられた累計の数は、3万8248人とある。
菊池寛の『マスク』と題する小説(文春文庫の本の解説された辻仁成氏が解説の中で小説と書かれている)、一世紀も前に流行した感染症スペイン風邪を読むと、このふたつを比べてみたくなる。もちろん菌が違うだろうから『同じ』とは言えないが、祖父が書いてくれておいた随筆?小説だから、今になると役に立つ。まず、一部を紹介する。

 

 自分は感冒に対して、脅え切ってしまったと云われてもよかった。自分は出来るだけ予防したいと思った。最善の努力を払って、かからないように、しようと思った。他人から、臆病と嗤われようが、かかって死んでは堪らないと思った。

 自分は、極力外出しないようにした。妻も女中も、なるべく外出させないようにした。そして朝夕には過酸化水素水でウガイをした。止むを得ない用事で、外出するときには、ガーゼを沢山詰めたマスクをかけた。そして、出る時と帰った時に、丁寧にウガイをした。それで、自分は万全を期した。が、来客のあるのは、仕方がなかった。(中略)自分と話して居た友人が、話して居る間に、段々熱が高くなったので、送り返すと、その後から四十度の熱になったと云う報知を受けたときには、二三日は気味が悪かった。

 毎日の新聞に出る死亡者数の増減によって、自分は一喜一憂した。日ごとに増して行って、三千三百三十七人まで行くと、それを最高の記録として、わずかばかりではあったが、段々減少し始めたときには、自分はホッとした。が、自重した。(中略)ほとんど、外出しなかった。友人はもとより、妻までが、自分の臆病を笑った。自分も少し神経衰弱の恐怖症にかかって居ると思った。

(中略)感冒の脅威も段々衰えて行った。もうマスクを掛けて居る人はほとんどなかった。が、自分はまだマスクを除けなかった。「病気を怖れないで、伝染の危険をおかすなどと云うことは、それは野蛮人の勇気だよ。病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云う方が、文明人の勇気だよ。(中略)」自分は、こんなことを云って友人に弁解した。もうほとんど誰も付けて居る人はなかった。が、停留場で待ち合わして居る乗客の中に、一人位黒い布きれで、鼻口をおおって居る人を見出だした。自分は、非常に頼もしい気がした。ある種の同志であり、知己であるような気がした。(中略)自分が、真の衛生家であり、生命を極度に愛惜する点において一個の文明人であると云ったような、誇りさえ感じた。

 (しばらくたって)さすが自分も、マスクを付けなかった。また、感冒がぶり返したと云う新聞の記事が、心にかかりながら、時候の力が、自分を勇気付けてくれた。(ある時)自分を追い越した二十三四ばかりの青年があった。自分はその男の横顔を見た。その黒く突き出ている黒いマスクから、いやな妖怪的な醜さをさえ感じた。(中略)自分があの男を、不快に思ったのは、強者に対する弱者の反感ではなかったか。あんなに、マスクを付けることに熱心だった自分までが、それを付けることが、どうにも気恥しくなって居る時に、勇敢に傲然とマスクを付けて…