『月刊文藝春秋』が100年!(その2) | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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『月刊文藝春秋』が100年! その2

ブログ408号の続きを書こうと思って、ついつい忘れてしまった。
小説家佐々木味津三宛てに祖父・菊池寛が出した手紙を書いた。祖父は最初、自分たちの同人誌を『文藝春秋』という名を付けるプランでいたが、手紙の中では『牙城』ではどうだろうと書いている。佐々木の反対で牙城を止め、文藝春秋に戻したのだ。表紙は、『月刊文藝春秋』と白抜きにした。そして、その下に東大で同級生だった芥川龍之介「侏儒の言葉」をはじめ、菊池寛、中戸川吉二、今東光、川端康成、横光利一、小柳博、鈴木彦次郎、鈴木氏亨、南幸夫、斎藤龍太郎、佐々木味津三、船田享二、清野暢一郎、直木三十二、三上於兎吉、岡榮一郎、小島政二郎の18人の目次を並べた。
この中にいる直木三十二は、32歳の時の直木三十五である。

1923年(大正12年)1月号は、東京市小石川区(現在の文京区)林町19番地の借家菊池寛邸に文藝春秋社を置き、菊池寛編集になる『文藝春秋』創刊号(実際には前年1922年12月)を発行した。部数は3000部、総頁28頁、定価10銭、発売元・春陽堂でスタートした。そして、創刊号は売上部数2871部に達し、寄贈以外は返品ゼロだった。この年8月号に公開した最後の頁の“損益勘定”には、支出=用紙代70円、表紙用紙代14円70銭、印刷代50円、製本代15円、原稿料・編集費120円、新聞広告料105円28銭、合計374円98銭。収入=発売元売上金179円13銭、直接売上金31円20銭、広告料収入75円、合計285円33銭。差し引き損失89円65銭と書いた。
このように“損益勘定”を随時掲載したのは、雑誌で文藝春秋だけで、読者からは好意と共に大層評判がよかった。

これに続いて、後に出張のための汽車の時刻表も載せたという。また、社内で起きる編集のあれこれも書いた。これは今の『月刊文藝春秋』にも残っている「社中日記」である。『文藝春秋』は、その安さもあって売れ行きがどんどんと伸びていく。2月号は、39頁、定価10銭。発行部数4000部、この号から表紙に菊池寛編集と入れた。3月号は、56頁、定価10銭。6000部。4月号は特別号として、65頁、特価20銭とし、10000部とした。返品は1200部だった。5月号は、104頁で20銭。

7月は、菊池寛邸とともに林町から本郷区(現文京区)駒込神明町317番地の借家に移った。そして、9月、刷り上がった9月号は、関東大震災のため全焼しやむなく休刊することになった。焼失欠損685円だったという。10月号も休刊せざるを得なかった。菊池寛邸=文藝春秋は、芥川龍之介の紹介で地震のために金沢に逃げ帰った室生犀星宅を借り、11月特別号として126頁、特価25銭とし10000部を刷った。
室生犀星邸は、市外田端523番地である。ここに3ヵ月弱住み、91年間借り続けた東京市外高田雑司ヶ谷金山339番地に菊池邸とともに文藝春秋社も移転した。この家は、『西洋演劇史』『日本演劇史』や『シラー選集』などの著作者新関良三が住んでいた家で、黄色に塗られた塀が人目を引く、4つの出窓があるモダンな二階家であった。雑司ヶ谷の山の上に立つこの家は、金山御殿と呼ばれた。ここまでが、菊池寛邸と文藝春秋社が共にいた場所になった。