音羽屋~!| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 368

音羽屋~!

大向うから掛け声がかかる!
当たり役『蘭平物狂』の伴蘭平役だったか、『暗闇の丑松』か『勧進帳』の弁慶か富樫だったか、覚えていない。情けないことに、歌舞伎座だったか国立劇場だったかさえも朧気である。なにせ、30年は前の事だもの。多分、私が勤務していた出版社の近くにある国立劇場だったろう。

彼は、二代目の尾上松緑の長男で、5歳の頃に歌舞伎座で『伽羅先代萩』の鶴千代で、初舞台を踏んだ。それが、初代尾上左近の誕生だった。それから13年後に、やはり歌舞伎座で『寿曽我対面』の五郎と『君が代松竹梅』の松の君で、初代尾上辰之助を襲名した。十二代目團十郎が襲名する前の名、六代目市川新之助と七代目菊五郎がまだ四代目菊之助だった頃、「三之助」と呼ばれる同世代の揃い踏みの時代があった。

彼の踊りは、天下一品だったと私は思っている。若くして父から日本舞踊藤間流家元の五代目藤間勘右衛門を継いだくらいだ。屋号は、音羽屋である。急に歌舞伎の事、特に40歳で早世した役者の事を書き出して、面食らっている読者の方もいらっしゃるかも知れません。いえね、彼と私は、小学校から高校を卒業するまで、同級生だったんですよ。それに、私の仕事先から彼の家まで3分くらい坂を下って行くと着いちゃう。ですから、学校時代よりも彼が役者の道、私が編集者になった頃からの方が、よく逢って話すことの方が多くなりましてね。

美輪明宏さんが『リチャード三世』で共演された後に「お父様の二代目松緑さんは、豪胆な人だったけど、辰之助さんは、ものすごく繊細で、デリケートな人だった」と何かで読んだことがありました。まあ、酒豪でしたね!若い時からボトル1本空けるくらいでしたから。ただ、晩年、飲みすぎの帰来は、ありました。三之助のふたりが、どんどん高みに襲名していく。松竹が、良い名前を持って行っても親父の松緑さんが受け付けなかった。実力があったのにねぇ!結局、辰之助のまま逝っちゃって、その後、彼の息子の二代目辰之助が松緑を継ぐ時、友の辰之助に三代目松緑が追贈された。親父の二代目も継がせたかったら早く松緑の名を襲名させれば良かったのになぁ、と思っています。そしたら、彼の華やかな舞台を今も見ることが出来たでしょうに!

よく彼から夜電話がありました。舞台が終わって、大切なお客様と会って、帰るのが夜中。私も、編集者でしたから、夜中が都合が良い。真夜中に彼の部屋で、朝方まで喋りました。
「赤子の頃に中耳炎を患い、進駐軍のトロッターという将校からオヤジが緑の粉薬を貰ってきてね、水で溶かして、ほらここに凹みの跡があるだろ」私は、ズボンをタクシアゲて太腿にある窪みを彼に見せた。俺の親父が言うには「将校から赤子の腕には注射するな、もぎれるから太腿に打て!」ときつく言われたらしい。それがペニシリンだった。子供の頃に赤坂の山王ホテルに居たトロッターさんにお礼に行ったよ、と私が言うと「同じ!俺も似た経験をしたよ、いつも客席の外人を探して、老人がひとりでいると、お礼したいなぁ、と思っている。お前は、お礼が出来て幸せだったなぁ」辰之助は、羨まし気に言う!

3月28日、彼の命日である。この頃に、毎年彼を想い出す。
音羽屋~ぁ!