大いなる矛盾| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 357

大いなる矛盾

誰しも人間生きていると何かしら矛盾を感じているものですね!今や世界中のトップたちのやっていることに矛盾を感じますし、オリンピックの選手たちをはじめ、高校野球の選手特に卒業前の選手たちも、楽しみにしていた修学旅行に行けなくなった子供たちも、大いなる矛盾を感じたと思います。「何で僕たち、私たちだけが?」それが矛盾です。

少し話は外れますが、私の祖父・文豪と言われた菊池寛もきっと矛盾の中でもがき苦しんだひとりでしょう!
967年に施行された『延喜式』や文武二年に編纂された『新日本紀』に書かれている通り、『後拾遺』や『新古今』でその名を知られた藤原北家九条流氏族、中関白道隆の子である藤原隆家の子政則が、肥後熊本の鞠智城に入り、菊池一族の祖となった。菊池は、水軍を持つ勤王武士集団となり室町時代の後期までの約450年の長きに渡って君臨する豪族となった。一代目の藤原菊池正則には、4人の息子がいた。長男・西郷政隆、次男の小島保隆、三男の兵藤経隆、四男合志経明である。菊池の姓は、三男の兵頭経隆が継いだ。祖父、すなわち私の祖は、この兵藤経隆である。長男の西郷正隆の末裔には、西郷隆盛が出ている。西郷正隆は、現在の熊本県菊池市七城町、当時の西郷という地に住んでいた。西郷隆盛も一時、菊池源吾という名を使っていたことがある。

菊池寛は、貧乏な家に生まれた。元は、高松藩(御三家の水戸筋からの殿様)の藩儒。殿様に儒学朱子学をお教えする儒学博士の家柄だったが、明治維新の革命によって天地がひっくり返ってしまった。教科書も買えず、父からは「友達に頼んで写本をしろ!」とも言われた。もちろん修学旅行も指をくわえて友達が楽しむのを見ていた。また大学を選ぶにも文学の道ではなくて、月謝のかからない東京高等師範学校予科英語部に明治41年に入学している。今の教育大学であった。金が無いのは辛い。帝国大学の一高に入学するまで、相当遠回りしたのだ。明治21年に産まれた菊池寛は、もし明治維新が無かったら、当然博士になっていた自分の運命の矛盾を感じていたろう。また、その革命のひとりの旗手になったのが、明治維新に参加した血縁者の西郷隆盛だから、堪らないものがあったに違いない。菊池寛の作品の多くに「それらの影を見る」ことが出来る。藤原の勤王の武士一族、儒者、そして明治維新という革命でどん底に落ちた家に産まれ、その要因になり、結果日本人に「自由」や「平等意識」をもたらせてくれた西郷隆盛の存在。私だったら、右をみても、左を見ても、何が何だか分からない矛盾と運命に翻弄されるに違いない。

小説家を目指し、帝大一高から京大に移った祖父は、作家だった。これらの自分を苦しめた全てのことを大きなテーマの基に置いたのだ。『父帰る』しかり『恩讐の彼方に』、『忠直卿行状記』、『藤十郎の戀』、『入れ札』、『眞珠夫人』、『東京行進曲』、そして、私の好きな祖父の作品『笑ひ』や『身投げ救助業』、『三人の兄弟』なども、人の周りに付いて回る「矛盾」を巧妙な手口でテーマ化して作品にしている。私は「君は皮肉屋だね」と、言われたことがあるが、私のルーツがその所以であると思っている。