映画は大映 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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映画は大映

大映が計画倒産をしたのは、昭和46年(1971年)12月23日であった。
計画倒産と書いたのは、誰かがこの倒産劇で儲かったわけではなく、社員の給料、ボーナス、そして、関連企業の支払いを全て済まして倒産の道を選んだからである。
社員の組合は6組合あったと聞いたことがある。そこに、よそ者達が入り込み、会社をグチャグチャにしたらしい。嫌気がさした社長 永田雅一は、倒産の道を選んだという。

戦争真っ只中の昭和16年8月、映画製作代表機関である社団法人日本映画協会の常務理事、松竹の城戸四郎氏、東宝の植村泰二氏と大橋武雄氏は、国家の情報局から突然呼び出された。情報局、陸海軍、文部省、内務省は「臨戦体制下、映画フィルムの原料は軍需品であるから、映画会社を2社にしろ!」と言う。
当時、劇映画製作会社は、松竹、東宝、日活、新興キネマ、大都の5社があり、制作会社等関連会社を入れると200社をこえた。それを2社にしろという無体である。3人の常務理事は、苦肉の策として、当時国家に顔を知られていなかった新興キネマの京都撮影所長永田雅一を軍部との交渉に当たらせた。交渉は、難航したが映画産業は、3社を勝ち取ったのである。そして、5社を合併した東宝、2社が組んだ松竹、日活、新興キネマ、大都3社が組んだ大日本映画製作株式会社の3社が出来た。大日本映画が「大映」である。
永田雅一は、京都友禅の染め物問屋の息子である。が、当時京都を牛耳る千本組という反社会的組織の中でヤンチャをしていた経験もあった。当然永田は、軍部や国家から睨まれ続けた。困った永田は、自らの社長業を諦め、川口松太郎他の知識人を使って祖父・菊池寛にアプローチをかけた。「作家の仕事場が、ひとつ増えるんだから」と、菊池寛は初代社長を引き受けた。当時は、もう我が子のように育てていた文藝春秋も軌道に乗っていたからである。

話を戻すと、倒産した大映を受け継いだのは徳間書店だった。そして、徳間映画が資金面で苦しくなるとKADOKAWA映画に変わった。大映は、名は変わったが、出版社系の映画会社として脈々と受け継がれているのだ。
大連休の前の日曜日に新生『大映会』発足の懇親会があり、案内が私のもとにも届いた。呼びかけ人は、大映のOBたち。徳間映画やKADOKAWAの人たちもいる。俳優、女優も参加されていた。

私の父は、後に大映本社に入るのだが、私が子供の頃は、人形町に浪花楽天地という映画館の塊があった。今でいうシネコンである。父が館主をしている大映の映画館の隣は、東映だった。路を挟んだ向かいに新東宝、2分も歩けば松竹や落語の人形町末広亭がある。小学生の私は、関係者として「顔パス」だった。日曜祭日は、朝から映画三昧である。2本立て週替わりが、あたり前の時代で1日に6、7本くらい観た覚えもある。小学生なのに大ファンの女優がいた。その会にも来ていた。叶順子さんである。