直木三十五 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 218

直木三十五

直木賞で多くの人は、直木三十五の名前だけは知っていると思う。
大正から昭和初期にかけて『関の弥太っぺ』や『瞼の母』など股旅物などを書いて、その名を残した長谷川伸は、直木三十五を「昭和畸人伝」を編む人があれば、第一にあげねばならない稀有の人だ、と言う。また、『宮本武蔵』の原作者吉川英治は「直木という人は、われわれの持っていない血液でも持っているのではないか。」と書き、作家宇野浩二は「所謂大衆文学の中で、所謂純文学と肩を並べ得るのは直木の作だけであろうか。」また、祖父の菊池寛は「彼出でて初めて、日本に歴史小説が存在したといってもいい。」と書き残している。同時代に生きた著名な作家たち四人が四人ともに直木三十五の作品を評価していた。
『南国太平記』や『心中きらゝ坂』、『仇討十種』、『荒木又右衛門』などの小説、雑文を含めて七百篇以上を残した小説家直木三十五とは、どんな人だったのか。「藝術は短く、貧乏は長し」と書き、莫大な借金に追われながら逝った天才は「私の略歴」を残している。

私の略歴
本名──植村宗一
年齢──三十五歳、卯の一白
生地──大阪市南内安堂寺町
父 ──惣八、八十一歳
母 ──静、六十九歳
族籍──平民
弟 ──清二、松山高等学校教授
妻 ──須磨子、四十七歳
長男──昇生
長女──木の実
身長──五尺五寸六七分
体重──十二貫百位

筆名の由来──植村の、植を、二分して直木、この時、三十一歳なりし故、直木三十一と称す。この名にて書きたるもの、文壇時評一篇のみ。
 翌年、直木三十二。この年、月評を、二篇書く。
 震災にて、大阪へ戻り、プラトン社に入り「苦楽」の編輯に当る三十三に成長して、三誌に、大衆物を書く。
 三十四を抜き、三十五と成り、故マキノ省三と共に、キネマ界に入り「聯合映画藝術家協会」を組織し、澤田正二郎、市川猿之助等の映画をとり、儲けたり、損をしたりし──後、月形龍之介と、マキノ智子との恋愛事件に関係し、マキノと、袂を分つ。
 キネマ界の愚劣さに、愛想をつかし、上京して、文学専心となる。
習癖──無帽、無マント、和服のみ。机によりては書けず、臥て書く習慣あり。夜半一二時ごろより、朝八九時まで書き、読み、午後二三時ごろ起床する日多し。
 速筆にて、一時間五枚乃至十枚を書き得。最速レコード、十六枚(踊子行状記の最終二十回は、この速度にて書く)
 酒は嗜まず、野菜物を好む。煙草は、マイミクスチユアか、スリーキヤツスルのマグナムに限る。但し、金が無いと、バツトにても結構。
 飛行機好きにて、旅客中、最多回数を搭乗しレコード保持者たり。
 パノール号ロードスターを自家用自動車として所有す。中古千五百円なりし品にて、菊池寛氏と、文藝春秋社と、三者にて使用し、月経費を三分して負担しつゝあり、円タクよりもあし。
趣味──囲碁二段に二三目。将棋八段に二枚落。麻雀無段。カツフエ、待合、旅行、競馬、嫌ひなもの無し。
資産──自動車半台分。刀剣少々。

直木三十五氏、脊椎カリエスと脳膜炎のせいにて昭和9年(1934年)2月24日、夜11時4分に帝大医院にて43歳の幕を下ろした。因みに通夜は、翌日25日木挽町文藝春秋社倶楽部にて、26日内幸町大阪ビル文藝春秋社にて告別式。葬儀委員長は、大の親友菊池寛が務めている。