「江戸古地図」について | honya.jp

閉門即是深山 58

「江戸古地図」について

ふと、私は、今どこに居るのだろうか?と、時々思うときがある。
このブログを書いているのは、だいたい赤坂のオフィスだ。赤坂も広い。私が打ちこんでいるパソコンは、地下鉄の溜池山王駅から六本木の交差点に向かって5~6分歩いて左に全日空ホテルやサントリーホールを見て、ちょっと右に入ったビルの部屋に置いてある。
そのオフィスのあるビルの路、一方通行を西に向かい、坂を登り、下って行く先の丘陵にTBSがある。

私は、いったい今どこに居るのだろうか?と、思うとき、いつも私は、江戸の地図を開いて見る。1689年(元禄2年)刊の相模屋太兵衛版の江戸図鑑綱目は面白いが、なんせ地図というより画に近い。今、私の頭にある東京地図と照らし合わせるには、とても苦労する。そこで、私は、1859年(安政6年)須原屋茂兵衛版を見ることにしている。江戸地図といっても沢山あるが、この2枚の地図だって170年の差がある。

先ほど書いた私の居場所だが、古地図を見るに、もしかすると溜池の池の中だったかも知れない。江戸時代当時の溜池は、大きい池だった。その池のほとりには山王神社が画かれている。溜池の中でなければ池のほとりにあった山口筑前の上の屋敷のあった所だろうか。そうであれば、ANAインターコンチネンタルホテル東京(東京全日空ホテルが改名)は、松平肥前の上の屋敷跡だし、サントリーホールのある森ビルは、松平大和の上の屋敷跡ということになろう。溜池を背中に南の方角に坂を上がると、なんと地図には六本木丁と書かれていた。古地図に画かれた路が現在の六本木交差点あたりだとすると六本木ヒルズは、松平右近の上の屋敷跡地なのかも知れない。元自衛隊の場所に新しく出来た東京ミッドタウンは、松平大膳の上の屋敷跡で、青山墓地は、青山大膳の上の屋敷跡か。TBSは、松平美濃の上屋敷の跡かも知れない。皇太子のお住まいになられる東宮御所や迎賓館、神宮外苑のある所は地図によれば紀伊殿とある。外堀の内側にも紀伊殿と書かれた場所があった。今は、壊されてしまった赤坂プリンスホテルのあった場所だ。隣が井伊掃部殿の屋敷跡で、現在ホテルニューオータニのタワーが聳え立っている。と、いうことは、上智大学は、尾張殿の屋敷跡だろう。この地は、現在三つのお家のお殿様の頭文字をとって紀尾井町とよばれている。赤坂御門を挟んで現在地下鉄赤坂見附駅や赤坂東急ホテルのある所は、松平出羽の上様の屋敷があったようだ。ホテルオークラやアメリカ大使館を江戸地図の上で指でなぞってみた。地図には葵の御紋が画かれ松平右近とある。
国会議事堂は、松平安藝の上の屋敷跡に違いない。そうすると警視庁は桜田門の真向かいにあるからこの上杉彈正と書いてある場所だろう。
芝の増上寺や、浅草の浅草寺、上野の不忍池などの場所は、今とほとんど変わっていないだろうから江戸地図の目安になる。築地の西本願寺は、移って来たと聞いたことがあるが、安政6年版の地図では、同じ所にあるようだ。先日、NHKのテレビ番組で築地西本願寺の話を放送していた。西本願寺は、三方運河に挟まれていて、地元の人たちが河を埋めて本堂を建てたと伝えていた。なるほど、それが築地の語源となったのかも知れない。浜離宮は、江戸地図には、濱御殿と書かれている。以前汐留に国鉄の操車場があった。国鉄がJRになり昔の操車場あたりが再開発されて、ホテルや劇場、電通ビルや日本テレビのビルが建ち並んだ。脇坂中務、松平陸奥、松平肥後の殿様方の屋敷跡であろう。
ついでに築地市場の場所を探してみた。これもNHKの番組で観たものだが、今の魚市場が、上から見て野球場のような形をしているのは、長い貨物列車を直線で停めておける広さが無く、半円形にレールを引いた戦前の人たちの知恵であったらしい。市場のあたりは、尾張殿、松平安藝、一橋殿、稲葉長門とあった。

さて、つまらぬことを長々と書いてしまいました。が、私が江戸時代のお殿様やそのお屋敷に興味があるわけではありません。
私のようなヒマ老人にとって江戸古地図などは、ヒマつぶしにはもってこいであるし、ちょっと夢があるような気がしただけです。
私の祖父である作家の菊池寛が、出版社文藝春秋社を創設したとき最初の入社試験問題は、彼が作った5~6問でした。
その中に2問、東京の町の語源に関する質問が入っていたようです。
「麹町とは?」「八重洲とは?」
よく聞く名前ですが、あなたは答えられますか?
そうだ、今日は私の勤めていた出版社のOB会でした。そろそろこの出版社も創立して90年が経ちます。
溜池山王駅からメトロに乗って麹町に行かねばなりません。
もうオフィスを出る時間です!パソコンの電源を切ります!