祖父・菊池寛のルーツの旅(その二) | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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祖父・菊池寛のルーツへの旅(その二)

前回菊池一族は、中国『三国志』の中の『魏志倭人伝』を資料として卑弥呼を王とした邪馬台国の南にあった狗奴国の王・卑弥弓呼の官狗古智卑狗(クコチヒク)が祖であったのではないかと書いた。
クコチヒクは、卑弥呼と卑弥弓呼の間に出来たひとつぶ種で、夫婦互いの間の仲が悪くなり、卑弥呼は邪馬台国のひととなり、そこで何人かの子供を宿したらしい。
このクコチヒクの末裔が鞠智(くくち きくち)となったという説が大きい。

奈良時代(749年ころ)の『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が記されている。この『奴婢帖』とは、奈良東大寺が大宅是麻呂から進上された61名の奴婢を記録したものである。
また、平安初期に編纂された『続日本紀』には「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」とある。「大宰府をして大野・基肄・鞠智の三城をおぎない治めせしむ」ということであろうか。
平安時代中期ころに編纂された『和名聚抄』では、九州肥後国菊池郡、現在の熊本県菊池市を「久々知」と註している。きっと上代から古代にかけてこの地域は「くくち」と呼ばれていたのだろう。また、資料から推量して「鞠智」と書かれていたのだろう。「くくち」は、前回書いた狗奴国の官クコチに発音が近い。
967年に施行された『延喜式』になると「鞠智」ではなく「菊池」になっている。
中国で『三国志』が編纂したころは、まだ日本には文字文化がなかったのかも知れない。当時の中国のひとの耳に入ってきたククチに彼らは、狗古智という漢字をあてたのだろう。誇り高き中国のひとは、日本を蛮人として扱ったようで、敢えて、「邪」や「馬」、「狗」、「卑」、「奴」などの卑文字をあてたようだ。
菊池には、肥後菊池氏、陸奥菊池氏、常陸菊池氏、下野国菊池氏とあるが、肥後の国の逸話『菊池千本槍』を祖父・菊池寛が書き映画化したところをみると菊池寛のルーツは、肥後菊池氏だった。

まぁ、この辺までは本当か否か証明することは困難だが、物語としては面白い。このブログを書くにあたって、え~ぃ、どうせ書くなら太古まで遡ってしまえ、どうせ読んでいるひともいないだろうと、無責任というか、自分が信じている物語を書いてきた。
さて、この先からは、注意して書かねばならない。多くの文献も残っているし、多くの研究者もいるからである。が、やはり面白い物語のほうが良いから、嘘八百と思って読んでくれろ!なぜなら、研究者、お偉い先生の中でも諸説があって、どれも正しいようでもあれば、どれも間違いのような気がする。ならば、私流の家系物語でもよろしかろうと思って、遠慮なしに書く。

平安時代の中期、953年だから天暦7年の頃である。公卿に藤原道隆というひとがおったそうじゃ。その御仁は、藤原兼家と摂津藤原中正が娘時姫の長男であったそうな。だから何だと言われても困る。ルーツを探す旅だから、道ずれもよし、読まなくても仕方が無い。「なんでここに日本人?」なんていうテレビ番組でも観るつもりで付き合ってくれたら嬉しいが……。この道隆は、内大臣・左大将、摂政関白で従一位であった。とにかく地位は、偉かった。そして、伊周、隆家、藤原正則対馬守と続いた。
そして、その後に現れたのが、元祖というか本家といおうか、初代菊池である藤原則隆である。
寛仁3年、西暦で言えば約997年前の1019年の大昔だ。藤原則隆が肥後の国、現在の大雨や地震災害の地の熊本県だ。その肥後の国菊池郡に後三条天皇の頃に、大宰少監、大夫少監として下向した。そして、菊池川の畔深川周辺に居を構えた。ならばと、地名菊池をとって菊池氏と称した。なにか凄いだろう?本当みたい!

この則隆(のりたか)が、どの資料にも菊池の祖と書かれている。武家で「並び鷹の羽」の家紋であった。則隆には、西郷政隆、小島保隆、兵藤経隆、合志経明という4人の息子があった。いや、外に何人いたかは、知らぬ。菊池寛を考えれば、外には沢山の息子や娘がいたに違いない。いないわけは無い!
則隆の後を兵藤警固太郎経隆が継いだ。兵藤経隆が2代目である。
面倒くさいから、少々飛ばすが、3代目が兵藤四郎経頼、4代目が鳥羽院武者所経宗、5代目が菊池七郎、肥後守の経直、6代目が次郎・肥後守隆直、7代目は、長男の隆長が、備中水島の合戦で討ち死にしたために弟の隆定が継いだ。

こんなの面白い?なにか、旧約聖書でも読んでいるみたいで、書いている、またルーツ探しをしている私でも面白くない。ただ、菊池寛が大映の映画を創るために書いた『菊池千本槍』の逸話が鎌倉時代にはある。また、その前に源平の対立の中、翻弄される物語もあった。
そうそう、ちょうど4代目経宗や5代目経直のころであった。4代、5代と鳥羽院武者との記録があるから、地方の有力者たちがこぞって中央にゴマを摺り、荘園などを寄進して院の保護を受けて院の武者として勢力を拡大しようとしていたころ、この親子も例に漏れなかったようで、勢力の拡大をはかっていた。おぬしたち、悪よのう!と言ったところだろう。平家が台頭し日宋貿易に熱心になったころ平清盛が肥後守に就任した。翻弄されるゾ、菊池一族は!