R18 | honya.jp

閉門即是深山 77

R18

先日のことだ。
ぼんやりとテレビを見ていた。
何かしながらだったと思うが、内容を思い出せない。
真剣に観ているときは、私は、補聴器を付けテレビのボリュームを上げている。
昨年、春の健康診断を受けたとき「難聴」を指摘された。
数年前から、家人と話しなどしていたときに「私の言ったこと、聞こえないんじゃない? 一度、耳鼻咽喉科に行ってみなさいよ」と幾度も言われていた。
しかし、毎年の健診でひっかかることもなかったので「健診では、何も言われなかったよ」と、答えていた。
しかし、だ、昨年の春に、だ。皆さまもされたことがあると思うが、あのヘッドホーンの親玉のようなヤツを右耳にあてたとき、高い音のツーッとか低い音のズーが判らないのだ。聞こえないわけではなかった。仕方なしに、やたらに手元に握ったスイッチを押しまくった。
「難聴」嫌な言葉だ。先週のこのブログにも書いたことだが、私は幼児時代に生きるか死ぬかの中耳炎を起こしている。また、悪さを覚えた歳に、ドラムを敲いていたから、ドラムのシズルの波が耳を刺激していたにきまっている。
ようは、耳が弱いということを自身が知っていたので「難聴」と言われることに恐怖していた。
そして、昨年春に「難聴」を拝名した。
新聞広告の通販で、格安の補聴器を買った。家人には、両手を上げて屈服した。テレビのボリュームは、補聴器を付けても21~22でないと聞こえない。最近思った。耳が壊れたのではなく、脳が壊れかかっているのではないかと。
そのとき、補聴器を付けていなかったのを考えると、テレビを付けてはいたが、あまり観る気ではなかったのだろう。やはり、何かをしていたのだ。

画面では、ビートたけし氏と阿川佐和子氏が映っている。たぶん『TVタックル』であろうと思う。その後だった。「おや?」と思ったのだ。知った顔が映っていた。出版業界でよくお会いする顔だった。確か新潮社の元編集長をしていて、いま役員をされている人のはずだった。
私は、補聴器を耳に入れ、テレビのボリュームを上げて観た。はたして、そうだった。なぜだろう?新潮社の編集の人たちが、テレビ出演することが少ない。珍しいことだった。ふと思った。
きっとあの少年殺人事件の関連の話に違いない。週刊新潮は、逸早くその事件の容疑者になった18歳の少年の姓名と顔写真を掲載したことは、知っていた。しかし、雑誌は見てはいなかった。
私は、この手の犯罪のマスコミ報道に危うさを感じている。
被害者の名前や顔写真をなぜに公表するのだろうか?公表する権利などあるのだろうか?
井戸端会議的好奇心で知りたいのは判るが、その影に官権の臭いが漂うからだ。警察や検察が、公表を許さなければ、なかなか表には出ない。嫌な臭いを感じるのは、策が感じられるからだ。
あんのじょうテレビでは、少年犯罪の容疑者の公表の是非が討論されていた。新潮社の方やその論に加担されている方々と、テレビやマラソンで有名な弁護士の討論である。弁護士の主張は、容疑者の少年の今後を考えると現在のように、顔写真や姓名を発表するのは許せないことである、ということらしい。

ちょっと待てよ!と、私は思った。「ちょと待て、ちょと待て!」「ラッスンゴレライ」とふざけるわけにはいかないが、ちょっと待てよ!この討論は、変だぞと感じた。討論のベースには、18歳の少年はある部分「少年法」に守られている。が、18歳以上は、顔写真や姓名を出して良いという前提がある。テレビでは、凶悪な事件だから18歳にもなっている容疑者の写真や姓名を発表して良いか、悪いかの是非を討論している。少しおかしい!何かおかしい!
犯人ならば、顔写真や姓名等々が公になっても不思議はないのだが、現在全てのマスコミは、容疑者になった人たちも公表している。
容疑者は、容疑をかけられるに足りる充分な証拠や背景があるから警察や検察は逮捕状を請求し、身柄を拘束する。しかし、容疑者であって、まだ犯罪を犯した証明もされていないし、抗弁もされていないのである。
簡単に言えば、誰しも容疑者になり得るのだ。
偶然に、事件の現場にいたり、アリバイ証明ができなかったり、何かで、指紋が付いてしまったり、決定的な証拠のようなものがあったりして逮捕されることもないとは言えまい。それは、容疑がかけられただけで、犯人では無い。しかし、顔写真や名前、住んでいる所など発表された後、裁判で無罪と言われても元には戻れないのではないだろうか?そして、それに対して、誰も責任を取ってくれないだろう。

まず、18歳という年齢の公表の是非を考える以前に、容疑者になっただけで情報を開示して良いものか否かの是非を討論してもらいたい。
人間が裁いているかぎり、冤罪はあり得るのだ。まだ、裁きも得ていない状態である容疑者の個人情報を出してよいものであろうか。もし間違っていたら、その容疑をかけられた人の人生を誰が保障できるのであろうか?昨今のジャーナリズムの危うさを感じているし、心配もしている。