祖父の友人たち【2】 | honya.jp

閉門即是深山 96

祖父の友人たち【2】

先週のこのブログの続きになる。

実は、前にも書いたが直木三十五氏の甥にあたる植村鞆音さんと初夏にお会い出来た。そして、鞆音さんが文藝春秋から刊行した『直木三十五伝』を読むことが出来た。また、彼に偶然お会いした席に、以前丸善の編集部で編集者としてご活躍されていた女史も同席されており、その方の大事にされていた筑摩書房が昭和42年に刊行した宇野浩二氏の著書『芥川龍之介』が贈られてきたのだ。これで、芥川賞・直木賞のルーツを探る資料が揃った。

『直木三十五伝』の帯の表には城山三郎氏の推薦文の他に「小心にして傲岸<ごうがん>、寡黙にして雄弁、稀代の浪費家で借金王、女好きのプランメーカー。昭和初期の文壇に異才を放った人気作家の全貌をあますところなく描く書下し評伝決定版!」とあり、裏には、「「芸術は短く、貧乏は長し」――莫大な借金に追われながら、七百篇におよぶ小説・雑文を書き、悠然と人生を駆け抜けた作家・直木三十五。」の後に、4人の友人作家たちが直木三十五の人物像を書いた文章が足されてあった。

「昭和畸人<きじん>伝」を編む人があれば、第一にあげねばならない稀有の人物だ。(長谷川伸)

直木という人は、われわれの持っていない血液でも持っているのではないか。(吉川英治)

所謂大衆文学の中で、所謂純文学を並べ得るのは直木の作だけであろうか。(宇野浩二)

彼出でて初めて、日本に歴史小説が存在したといってもいい。(菊池寛)

当時の文壇の重鎮たちの直木三十五に対する評価である。
因みに、宇野浩二さんは、明治24年に福岡で生まれた小説家で、作品に『蔵の中』や『文学的散歩』などがある。宇野さんは、昭和36年に亡くなられている。明治、大正、昭和の文化人のひとりで、祖父との交友もあった人だ。
また、長谷川伸は1884年に神奈川県に生まれた文豪であり、『瞼の母』や『沓掛時次郎』、『一本刀土俵入』などを遺した劇作家、大衆小説家である。

実は、先週のこのブログで『芥川龍之介』と『直木三十五伝』の二冊を読んで、芥川賞・直木賞のことを書こうと思っていた。が、私のオフィス内でも、この両賞をあまり知らない人が多いので、以前このブログで書いた芥川賞・直木賞規約を書いてしまった。芥川賞・直木賞憲章を含めると結構長いので、本題に入る前に、予定枚数になってしまった。と、いっても世の中の人々も、そんなものだろう!

直木三十五がペンネームであって、本名は、植村宗一といった。作家になって大正十年暮れに、宗一氏はペンネームを直木三十一としている。それまでに書いた雑文の類のほとんどは、植村宗一か北川長三の名前を使っていた。
平凡社で昭和6年に刊行した『現代大衆文学全集續第8巻 直木三十五集』の「私の略歴」には、「筆名の由来――植村の、植を、二分して、直木、この時、三十一歳なりし故、直木三十一と称す」と書かれている。
そして、ペンネームの年齢数を実年齢とともに成長させていった。ユニークである。翌大正12年、翌々13年は、直木三十二、直木三十三とした。その後、三十四を飛ばし、大正15年に三十五で固定したと植村鞆音氏は、著書の中で書いている。どうも「三十四」は、縁起が悪かったらしい。「惨死」に繋がるとして、初めから使わないと決めていたらしい。
直木三十五の名前については、このへんにしておくが、私は、この二作、宇野浩二の『芥川龍之介』と鞆音さんの『直木三十五伝』を読んで顔から火が出るような思いがした。
祖父・菊池寛の親友、芥川と直木の2人をまったく真逆(こんな言葉があるならば)なイメージを持っていたからだ。
植村鞆音さんから見ての伯父さんにあたる直木三十五は、とても無口な人だったらしい。それに引き換え芥川龍之介は、けっこう皮肉屋で人をからかい、面白がったりした人だった。

芥川龍之介と菊池寛は、一高(現東大の一部)で出会い同級生だったが、直木さんとは、どうも大阪での講演会で初めて出会ったようだ。
宇野浩二の『芥川龍之介』(文藝春秋新社刊 昭和二十八年)に、芥川龍之介、菊池寛、宇野浩二らと宗一との初めての出会いとなった大阪講演旅行が詳しく描かれている。とある。筑摩書房の本は、昭和42年に出し直されたようだ。

その帯には、著者宇野浩二の言葉で次のようにある。
──「私は、この文章を書いている間、しばしばあのやさしかった、悲しかった芥川の面影が目に浮び、涙ながれた。」本書は、芥川と親しく交った著者が彼の素顔を愛惜の念をこめて綴った心温まる追憶であり、芥川を知る必読の文章である。

以上、祖父・菊池寛の記念すべき友人ふたりの話である。