祖父の友人たち【1】 | honya.jp

閉門即是深山 95

祖父の友人たち【1】

先月の話になるが7月16日夜7時半ころ一通のメールが私の携帯に届いた。
「芥川賞、羽田圭介さんと又吉直樹さん 第153回芥川賞と直木賞の選考会が、16日夜、東京で開かれ、芥川賞に、羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』と、又吉直樹さんの『火花』が選ばれました。直木賞は今も選考が続いています。」と書かれてある。NHKニュース&スポーツからの配信であった。
7時43分とあるから、芥川賞が決まって10分くらい遅れて直木賞が決まったようだ。相次いでNHKニュース&スポーツから配信されてきた。
「直木賞に東山彰良さんの『流』」後の文章は、ほとんど芥川賞の配信と同じだった。

芥川賞と直木賞は、正式な名称を芥川龍之介賞と直木三十五賞という。〈文学賞の元祖〉といわれる芥川賞・直木賞が制定されたのは昭和10年(1935年)である。途中戦争で、昭和20年から23年まで中断を余儀なくされたが、80年前から続いている。年に2度、半期に一度あるから先月の発表が第153回となった。芥川賞・直木賞が制定される以前にも文学賞がなかったわけではないが、あまり残ってはいないようだ。時代によって多少の解釈は違うが、両賞には、憲法のようなモノがある。昭和十年『文藝春秋』新年号は、次のような「芥川・直木賞宣言」を発表した。これが憲法のようなモノということになる。

芥川・直木賞宣言
一、故芥川龍之介、直木三十五両氏の名を記念する為茲(ココ)に「芥川龍之介賞」並びに「直木三十五賞」を制定し、文運隆盛の一助に資することゝした。
一、右に要する賞金及び費用は文藝春秋社が之(コレ)を負担する。
芥川・直木賞委員会

私の祖父・菊池寛が創設し、書いたものである。
次いで二つの賞の「規定」と「細目」が掲げられていた。両賞別々に書かれているが、一部違うだけで、後は同じなので芥川賞だけをここに写してみる。

芥川龍之介賞規定
一、芥川龍之介賞は個人賞にして広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表されたる無名若(モ)しくは新進作家の創作中最も優秀なるものに呈す。(直木三十五賞規定は、この部分が少し違う。直木賞は「無名作家若しくは新進作家の大衆文芸中最も優秀なるもの」とある。これは、この時代の文学といえば、純文学であり、大衆文学、現在のエンターティメントは、一段も二段も下に見られていた。解らなくとも純文学が小説だ、とインテリたちが思っていた時代なのだ。あえて天才芥川龍之介に純文学の路を譲って、秀才菊池寛が大衆小説を書きだした意地なのかも知れないが、純文学の芥川賞と大衆文学の直木賞を両輪のように並ぶようにしたところに、祖父らしい企みがあった。結局、現在一般の読者たちは、エンターティメントの大衆文学を楽しみ、純文学はあまり読まれなくなった。時代が変わり、読者の趣向が変わっても、両賞が生き残り、社会的意味をもち続けているのは、この「企み」があったからではないかと私は、思っている)
二、芥川龍之介賞は、賞牌(時計)を以てし別に副賞として金五百円也を贈呈す。
三、芥川龍之介賞受賞者の審査は「芥川賞委員」之を行ふ。委員は故人と交誼(コウギ)あり且つ本社と関係深き左の人々を以て組織す。
菊池寛・久米正雄・山本有三・佐藤春夫・谷崎潤一郎・室生犀星・小島政二郎・佐々木茂索・瀧井孝作・横光利一・川端康成(順序不同)

(因みに、直木賞委員は、菊池寛・小島政二郎・吉川英治・大佛次郎・久米正雄・白井喬二・三上於菟吉、佐々木茂索であり、第一回の芥川賞の受賞者は、『蒼氓』を書いた石川達三が、また直木賞は、『鶴八鶴次郎』と『風流深川唄』を書いた川口松太郎が受賞している)
四、芥川龍之介賞は六ケ月毎に審査を行ふ。適当なるものなき時は授賞を行はず。
五、芥川龍之介受賞者には「文藝春秋」の誌面を提供し創作一篇を発表せしむ。
 一、第一期受賞資格を昭和十年一月号より六月号迄の各新聞雑誌に発表の作品と定む。
 一、審査の結果発表は「文藝春秋」十月号(直木賞は「話」「オール讀物」の各十一月号)誌上を以てす。
 一、受賞者には各賞授与式を行ひ、又委員会及び委員より、広く各新聞雑誌へ引続き作品紹介の労をとる。

非常に細かく規定されている。実は、この五月の末に昔からお会いしたかった直木三十五氏の甥にあたる植村鞆音氏と逢うことが出来た。氏から頂いた『直木三十五伝』と宇野浩二著『芥川龍之介』を読んだので、次回ここに書く。