おひとりさまについて | honya.jp

閉門即是深山 43

おひとりさまについて

7月4日金曜だった。時間は、たぶん午後2時過ぎだったろうか。
菊池寛の次女で、私の叔母 西ヶ谷ナナ子を介護センターに訪ねた。最低でも週に一日は、顔を見に行くのを私は自分に課していた。ナナ子叔母が脳卒中で倒れ、救急病院に運ばれ、処置後リハビリセンターからこの病院の介護センターに入り、私が彼女の世話を始めたことは、このブログの前身である電子雑誌『アレ!』のホームページ・ブログに書いたので、ここでは、省略する。

叔母のナナ子は、20数年前にひとり娘を失い、続く10数年前に連れ合いに先だたれ、ひとりきりの生活になっていたが、私の父で彼女の兄が共に同じ家で生活をし始めていた。
「まぁ、ふたりとも老人だけど一緒にいれば生きてるか、死んでいるかぐらいは、わかるよ!」生前父は、私によくそう言っていた。父の隣に座り叔母も、おじちゃんは、いつもいないから何してるんだか!でも、ふたりだから安心だよねぇ。と笑っていた。
とにかく、そうだろうなと私も高をくくっていた。3年前のあの大震災の年だった。父は、6月に急逝した。そして、叔母は、ひとりぼっちになってしまった。叔母は、何年前か一度脳卒中で救急車に乗せられたことがあった。二度目は、危険だ!妹思いの私の父は、いつも私の顔を見ると言っていた。叔母ちゃんを頼むぞ、と。もう大分以前に逝った私の母もナナ子叔母が好きで「本当なら、ナナ子叔母ちゃんにもアンタと同い年の息子がいたんだよ、正秋ちゃんと言ってねぇ。でも一年ももたなかったんだよ。私は、お乳が出なくてねぇ、アンタは、叔母ちゃんのお乳をもらって、大きくなったんだからね、ちゃんとしてあげなきゃね」とよく言っていたのを覚えている。

そんなわけで、おひとりさまになった叔母を週2~3回くらい訪ねるようになった。家は、雑司が谷の丘の上にあるから、下から電話をかけ、やれクロスワードパズルの雑誌だの、坂下の赤丸堂のパンだのを抱えて、その坂を登った。叔母のところには、週3回介護ヘルパーさんが来てくれていた。自然に火、木が私の担当になった。最初の内は、私も照れて他愛無い話をしていたが、互いに慣れてくると「今後のこと」を平気で話すようになっていた。
「もし私が倒れたらとか」「病院の費用」とか、「贅沢はしなくて良いよ!」とか、「痛いのは嫌だけど、特別なことはしないでちょうだい」とか、どんどん話は、細かくなっていく。ある日は「貴重品はこれとこれ。この金庫の鍵は、ここだからね。健康保険、後期高齢者保健の手帳は、ここだよ」とか、抜き差しならぬところまできてしまった。「わかった、全部叔母ちゃんの言ったことをやってあげるからね」と言うと、なんとなく安心した顔をしていた。

7月4日、毎週のように叔母の手や背中をさすりながら報告をしたり、「痛いとこないかい?」と聞いてみたりと、ふたりの時間が過ぎていった。なんだか叔母は、私の両腕にはめていたお守りブレスが気になったようで「これ水晶?くもっているよ、安かったんだね、右手のは、翡翠かい?色が不ぞろいだから、きっと安いんだね」こんなことを言う。少々頭にきたから「水晶のとなりが虎目石だよ、でもおばちゃんの言う通り」一方は、東急ハンズのバーゲンで買った水晶。右腕のは、以前編集者OB仲間と台湾旅行に行った自分への記念土産ものだった。翡翠は、ちょっと良いものと思っていたが、叔母の目からすると安物だった。介護センターの居間兼食堂のテーブルの前で車椅子に乗っているナナ子叔母が手を振っている。私もエレベータに乗りながら手を振っている。食堂にいる老人たちも私に手を振っている。毎週のことだった。

月曜の朝、7月7日の朝は、私は沼津にいた。9時ころから、病院、家人から頻繁に電話があった証が、私の携帯にあった。気がついて直ぐに私は、東京に向かった。
7月7日朝9時53分、ナナ子叔母ちゃんは逝った。たぶん七夕様のように夫や娘に会いに行ったのだろう。迎えにきたのかも知れない。89歳、大往生の歳ともいえる。後で、へんなことが私の頭をかすめた。「ナナ子」「77子」。素晴らしく良い人で、もう悔みが無く涙も出ない私に替って翌日挨拶に行った介護センターの職員の方々が、目を潤ませてくれた。

叔母ナナ子のように結婚をし、子供も持ったひともおひとりさまになる。また、最近は、結婚しない男女や、子供を持たない夫婦も多い。もちろん産みたくても出来ない夫婦は別として、敢えてしない若者が多いと聞く。離婚もそのひとつで、結婚しても別れて、子供もいないひとが多いらしい。これ、ひとりずつ理由があるのだろうが、おひとりさまは、最後にどうしようと思っているのだろうか。甥の私でも、叔母の葬式費用を自由に出来ない。夫や子供とは、違うので毎日どこかの区役所めぐりが続く。以前、センターで叔母と話していたとき、叔母が「あの時…」と言った。私は「叔母ちゃん、ごめんね!助けちゃって」と言うと、叔母は、本当に悲しそうに「そんな切ないこと言わないでよ、ありがとう!」と言う。叔母は、この3年近く幸せだったのだろうか?医療が進歩して人間は、死ねなくなった。たった70年前、叔母の父で私の祖父菊池寛は、59歳で逝った。当時は、早死にではなかったらしい。まぁ、60代とは言わないが、「幸せ」と思って死にたいものだ。医療も政治も進歩させることだけではなく、「人間の幸せ」を考えてほしいものだ。おひとりさまについて私もこれから考えてみようと思う。誰にでもあることだから。結論が見えたらまた書こう。