余話・城山三郎さん | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 66

余話・城山三郎さん

校條剛

 古いノートを整理していたら、「余録」と題された一冊がありました。LIFEの原稿用紙ノートです。片面二百字、見開き四百字。2003年6月から使用していたようです。もう二十年まえですが、すでにパソコンで文字を刻んでいたころですから、原稿用紙のノートを使おうとしたのには理由がありそうです。おそらく、このノートはもっと以前に買ったものだったのでしょう。まっさらなまま未使用だったので、備忘録として作家の発言を記録しておこうと思ったようです。

 さて、そのなかから今日は城山三郎さんの言葉を拾ってみましょう。以下の発言は2003年6月12日、東京芝の東京プリンスホテルのフレンチ「ボーセジュール」(Boaux Sejours)でランチを食べながらお聞きしたものです。

〈女房が突如、意識を失って救急車で徳洲会病院に運ばれたとき、杉浦という本名で入って、城山三郎の妻とは知らないのに、何人かで実に一生懸命対処してくれた。家族みんな感動し、感謝した。
 僕は翌日、テレビ『総理と語る』の収録日だったので、出かけるつもりだった。医者は『奥さんは亡くなるか、植物人間になる可能性が高いですよ』と告げたが、僕は収録の約束のほうを守った。
 女房は奇跡的に意識を回復したが、そのとき付いていた娘にこう言ったそうだ。第一声だよ。『出かけたのね』。凄いものだね。意識はつながっていたんだよ。〉
〈女房は三ヶ月で亡くなった。でも亡くなったその日、息子が出演しているテレビを見て、息子の姿を最後に目にすることができた。放送日が数日伸びていたので、家族はもう見られないと諦めていたんだ。でも、間に合ったんだから、不思議なものだね。〉

 城山さんの奥さんが亡くなったのは、2000年なので、この談話よりも三年ほどまえのことになります。テレビの収録を優先したなどと、いかにも城山さんは、気丈なタイプのようですが、実際は奥さんの不在が毎日、身体に応えてきたのです。不眠気味だったので、ゴルフはときどきやっておられましたが、ほとんど茅ヶ崎駅前の仕事場のマンションに閉じこもって、本を読む日々でした。昼間から酒を飲むことが多かったのも、酒に強いというよりも、索漠とした気持ちの行き場がアルコールにしかなかったからでしょう。

 東京プリンスホテルのフレンチ「ボーセジュール」は魚よりも肉を好んだ城山さんの行きつけのレストランでした。お昼に約束をして、ホテルのレストランの入口に立つと、氏はもう先に来ていて、ジンソーダを飲んでらっしゃいます。
 我々(二人のことが多かったです)と一緒にテーブルに着くと、まずは赤ワインのボトルをオーダーされます。我々はこのあと会社に戻るので、躊躇していると、「君たちも飲むだろう」と。「ワインは酒じゃないよ」ともおっしゃいます。

 現在、東京プリンスホテルにはもう「ボーセジュール」は存在しません(軽井沢プリンスには同名のレストランがあるようです)。奥さんとのなれそめと結婚生活については、城山さんの死後仕事部屋で発見された原稿を新潮社の編集者がまとめた『そうか、もう君はいないのか』をお読み下さい。