団塊世代は幸せだったのか | ポテトサラダ通信(免条剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 58

団塊世代は幸せだったのか

免条剛(校條剛改め)

 私は昭和でいうと25年、西暦だと1950年生まれなので、いわゆる団塊の世代の最後尾に入ります。現代の若い世代は団塊の世代が送ってきた生活は華やかで、経済的な豊かさをむさぼったのだと誤解しているようです。羨ましがるどころか、妬みに似た怨嗟の声も聞えたりします。それに対して、団塊側からの抗弁をあまり聞いたことがないのは、私の目が行き届かないせいでしょうか。おそらくそうではなく、抗弁する元気もないほどに団塊は使い古されてしまったのです。人生の自由度、生活の安定度、つまり人が生きてゆく環境として、我々、団塊時代が現代世代より良かったのだと思える部分は私には見当たりません。

 団塊の世代は、日本が経済大国として急成長していく時期に活動していたので、経済的な恩恵をシャワーのように浴びていたと考えている人が多いようです。給料がガンガンと上がり、社用の交際費もたっぷり使えたのだと。しかし、一部の富裕層を除き、ほとんどの同世代の戦士たちは、自分たちが豊かな満ち足りた生活を送ってきたとは思っていないことでしょう。
我々団塊人がどういう環境下で生きてきたのか、初歩的な説明をしましょう。

[学校]
 第一次ベビーブームと言われていたと思いますが、小学校に入っても同級生の数がもの凄く多く、一クラス50人超えで、しかも同一学年のクラス数は現代の何倍かあったはずです。私が入学したのは東京都杉並区の小学校ですが、二年生の途中から尼崎、神戸、名古屋へと転居しました。尼崎の小学校では、校舎に全員を収容しきれずに、午前中と午後と児童を二つに分けて授業を行なっていました。東京に戻って入った中学校では、生徒数が多すぎて、校庭にプレハブ校舎を増設していました。プレハブという言葉はこのときに覚えたのです。

 その中学校の校庭が半分ほどの面積になってしまったので、生徒全員が参加するべき運動会は自校では開催出来ず、徒歩30分の距離にある私立学校の校庭を借りて開かれました(苦笑)。当日には、一列になって全校生徒と教員が歩いてその私立校まで往復しました。バスを借りての送り迎えなど、一切なしです。
私が入った高校は私立の進学校だったのですが、8クラスありました。アルファベットでいうと、AクラスからHクラスまであったのです。もちろん、その一つ一つのクラスの学生数は50人超えでした。

 ネズミを使った実験をご存じかと思いますが、狭い空間にぎっしりとネズミを詰め込むとどうなるか。特に餌を与えないでいると、最終的には殺し合い、共食いが起こります。
 当時は「イジメ」などという陰湿な行為は、まったくといっていいほど無視されていました。一人一人の学生に注目するようなゆとりは教員にはなかったのです。実際にはイジメに類したトラブルは数多くあったはずですが、現代の事件のように社会が問題視する様子はなかったのです。それだけ、一人一人に目配りする余裕のない時代だったわけです。

[貧困]
 会社に入って給料を貰うようになるまでは、ずっと貧乏だったという記憶しかありません。服も靴も数少ない同じモノをずっと使っていました。学校は学費の安い公立に入るのが大原則でした。しかし、私は高校、大学と私立でしたから、収入の少ない我が家では学費を捻出するのに苦労したはずです。
 煎餅やビスケットなどのお菓子を食べてはいましたが、ほんの時々で自家製のおやつがほとんどだったという記憶です。サツマイモのふかしたのとか、鰹節とネギを散らしただけのお好み焼き。すいとんという小麦粉を練ったものを汁に浮かした鍋料理は間食ではなく、食事そのものだったのでしょうか。「麦焦がし」という大麦を焦がした粉に砂糖を加えて練った食べものは何度か食べた記憶があります。そういったものが、お菓子の代わりだったのです。コンビニで何種類ものデザート菓子が買える現代の豊かさとは比べものになりません。今度、長い歴史に終止符を打つというサクマのドロップスなど、あの缶を大事に大事に宝物のように扱ったものです。買い食いするにも、小遣いもろくに貰っていません。廉価なお菓子やメンコ、「びーだま」などを並べていた駄菓子屋に馴染むこともありませんでした。

[スーパー]
 現代のスーパーにおける商品の豊かさは現代人には当たり前でしょうが、私が大学に入る頃、やっと「西友」が現われたように思います。それまでは、肉は肉店、魚は魚店、野菜は八百屋というように、個店を渡り歩いて買ったものです。主婦はほぼ毎日買物に出かけなければなりませんでした。冷凍庫が冷蔵庫に付属していない時代です。一カ所でほとんどの食料品が賄えるスーパーがなかったので、主婦が買物に掛ける時間は半日なんてこともあったでしょう。クルマなど自分たちが所有できるとは夢にも考えもしなかったですし、ショッピングカートのような便利な用具もなく、竹で編んだ買物籠に詰めて、戻ってくるのです。

[住宅]
 マンションという何世帯も入居できる建物はなかった時代です。マンションという用語を聞いたのは、中学校三年のときで、転校してきた同級生が○○マンションに住んでいるというので、「マンション」というアダナが付いたほど珍しかったのです。団地というものは数少ないながら、すでに出来ていました。私が小学生のときに、団地住まいの子供たちがいましたが、彼らは狭い空間暮しながら、一戸建ての生活者よりも文化的な生活をしていました。特にトイレです。私の家は一戸建ての社宅でしたが、トイレは汲み取り式だったのに、団地族の彼らは水洗のトイレを使っていたのです。
 私が会社勤めをしてからも、住宅不足は続いていました。東京23区の土地は高価で手が出ません。都心から遠く離れた多摩ニュータウンに入居したのは、民間の手頃な広さのマンションがほとんどなく、公団の抽選に当たった地域に住まざるを得なかったからです。

[住宅ローン]
 私はまずまずの給料をもらっていたほうでしょう。しかし、家族が増えて、いろいろと出費が増え、なによりも団地の部屋を買ったときの公団への返済金利が7%という高率だったので、ローンの支払いが毎月給料を浸食していました。毎月の赤字は、ボーナスで補填していたのです。
 マイホームのローン返済は、都下H市の一戸建てを建築してからも継続します。この一戸建てを作るにあたって、土地選び、建築家選びは失敗だったといまは思っています。ネット情報なるものが当時は存在していなかったために(全部紙の情報です。分厚い情報誌のみ)、狭い範囲の情報しか手に入らなかったのです。
 毎月10万円ほどのローンを払っていたと記憶します。月に10万円として年間100万円、十年で1000万円貯金できる金額です(ボーナス時には20万円とか増額の返済ですので、もっと増えるでしょう)。ちなみに、H市のような東京の果てでも、地価は一坪100万円もしました。現在は、60~80万円くらいでしょうか? 巨額のお金を投じた我が家は、資産価値は大幅に下がっています。
 サラリーマン生活はローン返済で終わったと断言してもいいのです。団塊の世代の不幸を一つだけに絞れと言われれば、この住宅ローンを挙げればいいのかもしれません。

[情報]
 情報の供給源は新聞、テレビ、雑誌でした。旅行するとき、食事場所を探すときなど、情報は紙の地図とか雑誌の特集などに頼るしかないのです。たとえば1990年にヨーロッパ旅行をしたときに、日本の観光客がほとんど訪れないトリーノのような街を歩くときに、非常に不自由な思いをしました。日本語のガイド本がないので、食べもの店だけではなく、行き当たりばったりの街歩きのため、ひたすら疲れただけという状態でした。ローマやフィレンツェなどの有名観光地は、「JALステュワーデスお勧めの店」というような地図を持ってはいましたが、現在のように、トスカーナ地方の田舎で「ワインと田舎料理を楽しむ」というような選択肢はありませんでした。やはり絶対的に情報は少なかったのです。
 現代では知らない土地に行くとき、とりあえず「食べログ」のようなネットのサイトでまず当たりを付け、それを基本にしてさらに信頼できるブログを探したりもします。
 医者選びも、ネット上で検索が出来るので、近場の専門医を探すのは簡単ですが、我々の時代には口コミで知るか、近所のお医者に駆け込むかしか方法がなかったのです。

[アミューズメント]
 動物園か水族館、映画館、劇場、演奏会場くらいは少ないながら多少はありました。ディズニーランドとかのアミューズメント施設や、○○アリーナなどという巨大イヴェント施設などはありません。プロスポーツはほぼ野球と相撲のみ。サッカー、バスケットボール、テニスなどは基本アマチュアのスポーツでした。

[食べもの店]
 中華、洋食、和食の別はありましたが、フレンチは高級で、イタリアンはまだ上陸せずという具合。ファミレスなし、居酒屋チェーンなし、焼肉チェーンもなしです。酒はビールと日本酒、焼酎が主で、ワインを飲んでいる人種はフレンチに通うリッチな人のみ。私はワインというのは赤玉ポートワインのことだと長いこと信じていました(苦笑)。
 ファッションの項目で「ファースト」なもの、つまり手早く安く買えるシステムの登場について述べますが、フードに関してもファースト・フードなるものは存在しませんでした。あったのは、駅の立ち食いソバくらいのものでした。

[コンビニ]
 スマホとコンビニが存在しないことが現代人に考えられるでしょうか。コンビニが現われたのは、私が30代を迎えてからのことだと思います。私は文芸編集者だったので夜業が多かったのですが、夜食を用意するにも一苦労しました。会社のビルが住宅街にあったので、夕食は必ず近場の数少ない食べもの店しか選択肢がありませんでした。
 旅行先で下着やらを忘れたというときにも、コンビニで手に入る現代がどれほど楽な時代であるか、生まれたときからコンビニが存在するという環境で育った人には実感がないでしょう。

[ファッション]
 UNIQLOや無印良品、GAPなどのファーストファッションは我々の時代には皆無でした。洋服は背広などの仕事着はデパートで誂えました。普段着は洋品店などで見繕って手に入れていたのですが、およそファッション性に欠ける商品ばかり。旅行に行くときは、男は背広、女はスーツというまさにお出かけ着でした。今日のように、多種多様な洋服が手に入るようになるとは夢想もしていません。オシャレ着として、ジーンズを穿くようになったのさえ、ここ二十年くらいのことではないでしょうか。高齢者ほどジーンズにしがみついているのは、若い頃には穿きこなせていなかったからです。

[スマホ]
 もう説明するまでもないですね。起きている限りスマホをいじっているという若者が他のこと、例えばアナログの極致の読書などに割く時間はないでしょう。紙の書籍が売れないはずです。電話でさえ固定電話しかないという状態をいま想像が出来るでしょうか? 我々団塊の世代もスマホから多大な恩恵を受けているのは否定できませんが、スマホ依存の行き着く先が心配です。
 団塊の世代を「食い逃げ世代」などと呼んでいる若者が大勢いるようですが、現代のあなたたちの方がずっと良い暮らしをしているのです。「食い逃げ」したのは、むしろ我々が看取った祖父母、父母の世代でしょう。医療費など、団塊の世代の稼いだお金を潤沢に使えたのですから。しかし、その世代は先の戦争で苦労をしていますので、晩年の安寧は当然の報酬です。

 老後生活もだんだんと虐められてきています。年金は減らされる傾向にあるし、将来入居を希望する老人施設の数と職員は足りなくなると予測されています。最後の最後まで、同世代の人数の多さのために、酷い目に遭うのは、我々団塊の世代なのです。政治家の皆さんには警告しておきます。団塊の世代は選挙の投票には熱心ですよ。