『黒い雨』を読む | ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 56

『黒い雨』を読む

校條 剛

 武田百合子の『富士日記』については、以前もこのブログに取り上げたことがあります。私自身、かつて武田山荘のあった富士山麓の別荘地の別の区画の住人なので、ご近所のよしみもあり、何度も『富士日記』を読み返しているのです。実は『富士日記』に登場する地元の人たち、そのなかでも武田泰淳・百合子夫妻が気に入っている三人、石屋の外川さん、ガソリンスタンドのおじさん、そのスタンドで働くノブさんの三人のその後を追ったドキュメントを書こうとして、血縁の方々から談話を集めてきました。
 そのこともあって、富士にいても、自宅のある日野に帰っていても、『富士日記』はバイブルのように身近においてあります。

 最初に読んだときから、気になっていたことがあります。夏になると、ことに八月に入ると百合子さんは、毎年のように井伏鱒二の『黒い雨』を読み始めます。一通りの家事が終わり、来客もなく、お客として近所の大岡昇平さんのお家を訪ねることがない日の夜に、この本を開くのです。昭和46(1971)年8月4日の日記に〈「黒い雨」を読む。涙が出て、それから笑う。〉とあるのは、ほんの一例で、ほぼ毎年この同じ小説を読んでいるのです。

 百合子さんは、『黒い雨』のみならず、井伏作品がお好みで、山荘に井伏全集を運びこむ年もあります。井伏作品のほんのりトボけたユーモアが気に入っているようです。
 しかし、そのなかでも『黒い雨』は特別の作品です。ほんとに、毎夏読んでいるのですから。8月6日、9日の広島、長崎の原爆投下を忘れまいとしているとしか思えません。
 ただ、それも推測に過ぎないのは、『黒い雨』を毎夏に読む理由は一切述べられていないからです。夫泰淳との会話のなかでも、この小説について語られていません。原爆で亡くなった縁者の存在も述べられていません。

『黒い雨』は、小説愛好者だけではなく、日本の全国民が読むべき作品だと今は思いますが、実は私は今年2022年夏に初めて読みました。百合子さんが、毎夏読むという、その意味を確かめたかったからです。なぜ、もっと若いころに読んでおかなかったのだろうと、読み終わって後悔ひとしおでした。
「原爆」ものというと、私は警戒してしまうのです。類型の「戦争反対」主張が、人の心に訴えることの少なさは、これまでの人生で経験済みですから、いわゆる平和運動の一環としての「原爆」作品にもその臭いを感じて、気配を感じるとさっさと退却することを旨としていました。

 私は名作だと言われている『はだしのゲン』を読んだことも、観たこともありませんが、やはり被爆した子供たちが主役の、『この子たちの夏 1945・ヒロシマ ナガサキ』という朗読劇を一回だけ観たことがあります。このときには、「水がほしい」と訴える、全身やけどを負った子供たちに、あえて水を飲ませないという非科学的な当時の医学常識のお寒い状況に憤慨したものです。
 しかし、こうした原爆ものは、まだまだオブラートに包まれた、あえていえば大衆受けを考慮した内容であると言いたくなります。

 原爆について、その恐ろしさ、悲惨さを認識するには、被害の実際と被災者の苦しみの具体的な描写が必要です。被災の実際をつぶさに報告する冷静な「目」の存在が必要です。『黒い雨』は、見事にその仕事を成し遂げていると思います。読者が物語世界へと導かれるためには、ある一人の人物の気持ちに乗り移ることが必要になりますが、語り手・閑間重松は自らも被災者の一人として、被爆の現場を何度もよろめき歩くことになります。その目に映る具体的な事実の描写から、悲惨という形容が物足りなく感じられるほどの衝撃を受けました。資料館の展示やテレビのドキュメンタリーなど「キレイごと」と思えてしまいます。

 この作品を読んでしまうと、広島、長崎の惨状はニュースで知るだけの他人事ではなくなってしまいます。摂氏三千度の熱波の恐ろしさと、人とモノが被災するときに受けるであろうとてつもない苦痛をリアルに覚えさせるのは、やはり文芸作品の偉大な力ゆえでしょう。広島、長崎でお決まりの献辞を読み上げる歴代総理のうち何人がこの作品を読んでいるのかアンケートを取りたいところです。
 『富士日記』を愛読していなければ、『黒い雨』は相変わらず題名を知っているだけの、私の人生とも無縁の小説であったはずで、さらに広島の原爆に関しても、通り一遍の関心しか持たなかったことでしょう。日本国の首相を笑える立場では、とてもありません。

 私は五年ほどまえに、初めて広島の原爆ドームと原爆資料館を観に行きましたが、そのまえに『黒い雨』を読んでおかなかったのは失敗でした。今日の原爆資料館では、原爆がもたらした人的被害のうち、ショックの少ない写真しか展示していません。摂氏三千度の熱量を想像させる展示物などはどこに仕舞ってあるのか、見ることができません。悲劇の現場においてすら、「キレイごと」がまかり通っている印象を受けます。

『黒い雨』という小説は、そもそも「重松日記」という重松静馬さんが記録した被災日記が底本になっています(現在、筑摩文庫に入っています)。さらに、井伏は、重松以外の三人の日記もほとんどそのまま使っているようです。それだからこそ、これほどの具体性をもった描写が可能だったのでしょう。ちなみに、小説の語り手・閑間重松は日記の提供者・重松静馬をひっくり返した名前で、ここに作者の言い訳が垣間見えます。
 盗作本だと、むきになって怒る人もいますが、文学作品を読むというより、原爆がもたらす恐ろしい実態を知るために読むという態度でいいのではないでしょうか。
 重松静馬が考えたように、井伏鱒二の名前で出版されたからこそ、今日にいたるまで、多くの読者を集めたわけで、そのなかに武田百合子さんも入っていたということなのでしょうから。

 核戦争がいったん始まると、人類の未来はどうなるでしょう。何度も言いますが、「核兵器反対」と繰り返すシュプレヒコールだけでは、核戦争に対するリアルな危機感を抱くことは不可能です。人類滅亡がすぐそこまで来ていることは、『黒い雨』を読んだ後に、現代の世界情勢を見れば、容易に想像できるはずだと私は思いました。