「匿名」という仮面| ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 45

「匿名」という仮面

校條 剛

 私は書籍を購入する際には、書店で買うと決めていても、既読の読者の感想を知りたくて、Amazonのレヴューを参考にすることが多いのです。

 Amazonに限らず、こうしたレヴューは基本匿名で投稿されます。私もAmazon内でのニックネームを持っているので、投稿するときには、そのニックネームを使うことになります。

 しかし、私の身の上にあることが起こったために、この「匿名投稿」というものの持つ危険性に、今更ですが気づかされました。
 昨年刊行した私の著作に対して、二つ星という低評価の一読者が、全体としては面白かったといいながら、レヴューの文章のほとんどを「作者がいかにモラルの低い人物であるか」というテーマに費やしていたのです。

 指摘された部分は二つあります。一つ目は、私が通っていたスポーツクラブで見かけた超著名人の名前を文中で公開している点です。N賞受賞者の学者Y先生(このエッセイで仮名にしても遅いのですが)のことですが、そのフルネームを公にしてしまうのは、個人情報の暴露なのでいかがなものか、というのです。

 実は、私も名前をそのまま出すことに若干の懸念を感じてはいました。編集者とか校閲者の指摘がなされていれば、おそらく頭文字だけにした可能性は大です。他人の責任に転嫁してはいけませんが、そもそも編集者というのは、著作のハザードを最初に指摘できる存在なので、電子書籍の時代になって、編集者不要論というお説を唱える方がいますが、まったく出版物への理解の届かない言説といっていいでしょう。

 話が逸れましたが、私が通っていたスポーツクラブは、誰でも安価に入れる普通の施設ですから、Y先生を目当てに来て、けしからん仕儀に及ぶとは想像ができません。

 さらに自宅の住所を公開したわけではなく、家族のプライバシーを暴露したわけでもない。スポーツクラブという会員制ながら公開されている空間での目撃談に過ぎません。さらにY先生を見かけることが以後ずっとありませんでしたから、もう退所されたことと想像できます(もっとも、それは言い訳そのものになってしまいますね)。
 個人情報保護という点において、この程度は許される範囲ではないのかという思いも残ります。

 もう一カ所は、私が自転車で飲酒運転をしているのは、けしからんというご指摘です。その部分は、京都市役所まえの自転車駐輪場がいっぱいで、指定の位置に停められず、二時間飲酒している間に、市の取り締まりに引っかかり、地下鉄で三駅離れた収容施設に運ばれてしまった経緯を述べたところです。

 確かに私は自転車で来ていてましたが、市役所まえの駐輪所から、私の住まいまでは歩いても十分程度の距離ですから、自転車は引いて帰るつもりだったのです。

 駐輪違反で持ち去られた自転車を取りに向かった、三駅先の二条駅からでは、確かに多少の距離はあり、自転車を引いて戻ることはぐでんぐでんに酔っていれば難しいでしょう。しかし、私の酒量はせいぜい中瓶ビール一本程度、足下がふらつくなんてこともありません。自宅から二条までは、地下鉄で三駅と説明しましたが、東京の地下鉄とは違い、散歩で歩いたことも何度かあるくらいで、実はたいした距離でもありません。

 飲酒での自転車走行は違法ということももちろん承知ですし、警官の検問などあれば言い逃れできませんから、酒が入っているときには、十分ブレーキがかかります。
 そのあたりの微妙な心理と行動を詳しく書いている余裕はありませんから、「自転車を引いて帰った」とは述べていません。その代わり、「自転車に乗って帰った」とも書いていないはずです。
 
 ここまでお読みの方は、そんな小さな批判など放っておけばいいだろうとお考えになるかもしれません。しかし、私にはこの二つの箇所をかざして、「あなたにはモラルの点で問題がある」と人格否定する声が胸に刺さりました。レヴューを読んでから、数日経つのにときどき思い出しては、傷がうずくのです。

 思い出してください。女子プロレスラーの木村花さんへの中傷、道志村で行方不明になった女児の母親への非難など、匿名の投稿者による精神被害は、木村さんのケースのように自殺にまで発展します。木村さんのような強健な身体を持った「普通人よりも頑丈な女性」が、匿名の投稿の言葉に自死するまで精神が追い詰められてしまうのです。

 韓国の俳優の自死も、ネットへの投稿、SNSへの投稿の内容に傷つけられてというケースが多かったと記憶します。
 これまで、書籍のレヴューに関しては、取り上げられてこなかったのですが、レヴューの悪意にさらされる著者の一人として、ここで声をあげておきたいと思うのです。 

 いくら書籍のレヴューであっても、匿名で著者のモラルを云々するのは、言い過ぎではないでしょうか。自分だけ安全地帯にいて、相手を見下して、いい気になってもらっては困るのです。
 匿名という仮面を被ると、リアルに相手と向かっているときとは違い、正義の鉄槌を振るうような強い姿勢でモノを言うことになりかねません。相手が反駁したり、暴力で応酬してくる心配がないのですから、平気で悪口、誹謗、中傷を投げつけることができるのです。

 このことは言われていませんが、オンラインというものにも私は疑いを持っています。オンラインという枠組は、その姿は画像として登場しているものの、全身鎧に守られているようなものです。私は年初のオンライン会議で、口数の少ない大人しいと思っていた女性作家から、侮辱的な言葉を投げつけられて唖然としました。

 リアルな会議では押さえつけていた内心の嫌悪や怒りが、鎧の守りの下であからさまに噴き出してしまうのでしょう。
 私も実は他者を批評したり、ときには非難口調になることはあります。自著のなかで、いくつかの店や商売を名指して批判していますが、それははっきり自分の名前を出してやっていることです。

 匿名でそれをすることは、たとえ本のレヴューであっても、ハザードランプが点滅する卑怯な行為だということを考えてほしいものです。

 私を「モラルレベルが低い」と批判したレヴューワーに対して、私もAmazonレヴューで応じることにしました。本を読んだだけで、作者をモラルの程度が低いと断じる、「あなたこそモラルのレヴェルが低い」のだと。