アニメ脳| ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 40

アニメ脳

校條 剛

「スマホ脳」という言葉をこの頃聞く機会が増えました。新潮新書ではそのものずばり『スマホ脳』という新書が出ています。
 まだまだ、エヴィデンスの少ない病態であるだろうし、未だ脳に関しては科学的な分析が難しく、憶測の域を出ないまま、単にいくつかある「論」の一つに過ぎないという考えもできるでしょう。ただ、現代人のスマホ漬けの生活がなにがしかの影響を脳に与えるのではという予測は素人にも想像できる範囲のものです。
 私が大学の教員として、2000年前後生まれの若者達の実態に触れてきた経験から、スマホ脳は十分に可能性としてありうると考えます。アナログの装置や紙で読むコンテンツで育った私などの世代と違って、若者達は生まれたときからデジタル技術に囲まれていたからです。

 デジタル技術によってもたらされたもののなかで、若者が頻繁に接しているのは、スマホやパソコンで観る動画です。5Gなどという高速の通信機能が行き渡ってくると、さらに彼らの動画への傾斜角度は激しくなってくるに違いありません。
 マイクロソフトのOfficeというアプリは、ビジネスマンには必携の三種の神器と言えるでしょうが、私が出版社の編集者であったときには、「Word」以外には使うことがほとんどありませんでした。しかし、一般のビジネスマンにはむしろExcelとPowerPoint(パワポ)の使用頻度が高かったことと思います。
 ところが、大学に勤めてからこれまで使ったことがほとんどなかったパワポを使うことが増えたのです。教師が一方的に喋る講義方法が否定され、学生を講義に誘導し、参加させるコーチングという考え方を取り入れよという大学の指導に従ったことがその大きな理由です。

 従来、大学の講義では教師が黒板に板書したものを学生がノートに書きとっていくという風景が普通で、入試の難易度の高い大学での大教室授業ではまだ同じやり方が取られているでしょうが、そうでない大学では、画像を映写し、その画像に目を向けるように誘導しないと学生たちはたちまちガクンと頭を垂れて居眠りしてしまうのです。
 そこで、登場するのがパワポでした。パワポでは静止画像だけではなく、動画を取り込むことも可能ですから、講義にはうってつけの武器となったわけです。静止画像であっても、学生達は不思議なほど前部スクリーンの画面に引きつけられます。画像といっても、文字だけのページも多かったのですが、学生の興味を惹きつける効果は十分にありました。
 この事実を発見してから、私の授業準備はパワポの制作にほとんど費やされるようになったのです。講義ノートから選び出した言葉を、80分の授業時間分を目安にパワポのスライドを作成していくのは、なかなか大変な作業でした。オーケストラの指揮者と同様、教師は準備段階にこそ労力と時間を注ぎ込むのです。

 私の学科は「文芸表現学科」という名称でしたが、学生達のほとんどは小さいころから、本よりもアニメ、コミック、ゲームに馴染んできた者達でした。その発展上でライトノベル(ラノベ)などを読むようになり、文字モノにも馴染んできたということになります。
 私のように昔ながらの文学部生と根本的に違うのは、古典的な東西の名作とか大人が読むエンタメの類、たとえばミステリー、ノンフィクション作品などとは縁のない読書内容であったということです。リアルな現実を反映したコンテンツは苦手で、魔法学校が登場するハリポタ系のファンタジーなら容易にはまっていくのです。
 そのようなコンテンツ環境がどういう影響を脳髄に与えたかというと、次のようなことが言えると考えます。我々のような教養的な、あるいは文学的な読書習慣に馴染んできた者には当たり前の常識(大きく言えば世界観)がまったく通じなくなっているということなのです。

 以前、このエッセイ欄で「不倫は文学だ」と題してチェーホフの「子犬を連れた奥さん」を「百讀」という授業で読んでもらったときの学生達の反応について述べました。「この小説は不倫の話ではないか。そんなものがどうして名作なのか」というあからさまな反応だったのです。マスコミの報道同様「不倫は悪で、それ以外の意味を持たない」のです。チェーホフの擁護者は一人も現われませんでした。
 もう一作、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を読んでもらったときのこと。設問のトップに次の問いかけをしました。
<主人公のホールデン少年に共感したか、共感できなかったか>
 村上春樹氏が名訳の誉れ高い野崎孝訳に加えて、新たに翻訳したくらいですから(村上訳タイトル『ライ麦畑のキャッチャー』)、我々の世代では青少年期に強い影響を与えた一冊であったことは明らかです。私も随分と入れ込んで読んだ作品でした。ですから、庄司薫氏が『赤ずきんちゃん気をつけて』で芥川賞を受賞したときに、ラストのエピソードがまるまる「ライ麦」から借りていて、しかも出来はかなり落ちると、誰も指摘しないことに苛立っていたくらいです。はっきり、私は「盗作」であると今も考えていますし、当時の選考委員達が「ライ麦」を読んでいなかった(であろう)ことに情けなさを覚えます。
 戻りますが、学生達の反応は意外なことに「ホールデンに共感しない」という意見が圧倒的でした。
 ホールデン少年が、怒りの対象にするのは、「インチキな」「にせ物の」「下品な」「建前の」ことどもです。学校や同級生や社会の隅々まで、インチキな常識に満ち満ちていることにホールデンは苛立っていて、その対局に位置するのが小さな妹のフィービーです。この小悪魔のようなフィービーの造形だけでも驚嘆に値すると思うのですが、誰一人、そういう意見は述べませんでした。 
 ひょっとすると、怠惰な学生達は、読んだ振りだけで、実際には読んでいなかったのかもしれません。あとで述べますが、リテラシー能力の不足も考えられます。つまり、本格的な文学を読んでこなかったために、文意が読み取れなかった、理解が及ばなかったという可能性です。 

 繰り返します。彼らが小さい頃から味わっていたコンテンツは、まずコミック、アニメ、ゲーム、ラノベということになります。
 この共通点は何かというと、「常識的な倫理観」「表面的な善と悪」「現実から離れた花園的な環境」ということに尽きるでしょう。
 大学に入るまでに、彼らは「悪」もまた「善」の裏返しであること、「不倫もごく普通の恋愛形態」であることなど一切知らずに育ってきたのです。
 その結果が、彼らの世界観が「善悪」の二元論の類型であることを招いているのです。若者の8割以上が現政権支持であるという異常な「非常識」がまかり通るのはこうしたことと深く関係しているはずです。
 不思議なのは、それなのに、類型でない精神の病にそれぞれ落ち込んでいる学生たちの何と多いことか! コミック、アニメ、ゲーム、ラノベは快楽中枢には訴えるものの脳の機能を鍛え、善悪で割り切れない倫理観、複雑な人間の感情や神経を育てることをしないものだと考えます。
 私は彼らの脳の様態を「アニメ脳」と呼びたいと思います。