約60年もの間 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 478

約60年もの間

私は、最初に原動機付自転車の免許をとった!昭和30年代である。当時は、原動機付自転車は、言葉通りのモノだった。今でも警察官や新聞配達所の前などに置いてあるごっつい自転車の又のあたりに、ガソリンで動く原動機が付いていた。2~3回ペタルを踏めば50CCのエンジンが動き出す。この免許では、オートバイには乗れない、あくまでも50CC以下の原動機付自転車のみであった。

おぼろげだが、13歳か14歳からこの免許証は取得できたはずだ。中学を卒業するころに取れたのだ!今、話すと、なぜそんなに早く免許証が取れたのだとかならず聞かれる。あの頃は、集団就職といって仕事のなかった地方の子供たちが中学を卒業すると都会に出て仕事に就くのが常だった。多くの場合仕事には、原動機付自転車が必要だった。雇い主は、中学を卒業した子たちに原動機自転車の免許を取らせて働かさせた。今では考えられない、働く子供たちのための免許だった。

当時バイクで有名な富士工業というメーカーがあった。私が原付免許を取ったころにモペットというカッコいい50CCバイクを出した。それと並んでホンダが出したのが、今でも皆が使っているカブだった。私は、ひとりっ子で男の子である。免許証は、府中にある自動車試験所で試験を受けた。試験といっても、視力の検査、色弱の検査、手のひらを閉じたり開けたりする検査に、一度だけ屈伸する検査、後はおざなりの講習を聞き免許証をもらって帰る。これも働く少年のために短時間で帰れるようにというお国の配慮であったと思う。

16歳で軽自動車の免許が取れた。原動機付自転車の免許を持っていれば、かなり優遇された。何時間も講習や実施をしなければならないはずが、3分の2くらいに優遇された。しかし、東京広しと言うが軽自動車を置いてある教習所はあまりなかった。私は、夏休みにバスで目白台から赤坂の国際自動車の教習所まで45分かけて通った。予約を取っている朝とキャンセルが出る夕方の2回乗るためであった。赤坂に今、国際興業の大きなビルがTBS会館の向かいにあるが、そこが昔は国際自動車教習所だった。
そのころは、教習所の向かいに大きな食堂が一軒あっただけだった。今では、飲み屋は沢山あるし、食い物屋、ジャズハウス、カラオケ屋と隙間がないほど店屋で埋まっている。

18歳で池袋刑務所跡にあった教習所で普通自動車免許証を取った。今のサンシャインのある場所だった。30台弱の車を乗り継いできた。スバル360にもマツダキャロルにも、最初に出た日産フェアレディZにも、一台、一台思い出が詰まっていた。しかし、3年前に車をあげてしまった。77歳になって人を殺したくはないからだ!しかし、免許証だけは、更新したかった。見栄なのか、意地なのか、未練なのか、それとも女性にとっては阿保のように見える男として有りを続けたいだけなのか、試験所で認知症の試験をし、何か月も待たされ教習所に行った。「何の問題もありませんが、慎重にね!」と、言われるために!
まだ誕生日よりひと月以上前だ、5月後半に試験所に行ってこよう!さて、次の更新はもう無いと思う!今回は、楽しい経験をさせてもらった!