踏んだり蹴ったり | honya.jp

閉門即是深山 416

踏んだり蹴ったり

東京に大雪の注意報が出た時である。
と、言っても日本海側の越後湯沢や青森、北海道のような本物の大雪ではない。
不思議な話だが、東京で5センチや10センチ積もるような雪がふりそうな場合は、各テレビのニュースでは、大騒ぎになる。
 
私が入り浸る溜池山王の喫茶店のマスターは、その日自転車に乗り出勤に使う最寄り駅の駐輪場に置いて出た。帰りは、次の日のランチの仕込みで店を出たのが、夜の10時過ぎになってしまったらしい。

昼前から降り出した雪は、止まずに降り続けていた。道路もライトアップされた立ち木も全てが銀世界になっていたらしい。彼は、自転車で駅まで来たのを悔やんだ。東京の西のその街は、都心よりも積雪がある。歩道は、多くの人々が踏んだ後に又雪が積もっていた。彼は、自転車を引いて帰ることにした。もう、家が見えて来た。気が緩んだのだと思う。自転車の両輪が、アイスバーンの上で横滑りをした。一瞬のことだった。自転車は、彼の体に覆い被さった!彼は、若い頃からスポーツマンである自分を自負していた。それに北海道出身の自分は雪に慣れていると思っていた。自転車の下敷きになった体であっても、やはり左手が自然と受け身をとっていた。しかし、胸が痛かった!

次の朝になっても胸の痛みは、消えずにいる。彼は医者に駆け込んだ。レントゲンで肋骨の一部にひびが入ったことが判った。なんだ肋骨にひびが入ったくらいのことで助かった!彼は、手当をしてもらって店に出勤した。しかし、左の親指がどうも痺れる!

ちょうどこの日、私は『週刊文春1月20日発売号』の取材で古巣文藝春秋にいた。週刊文春では、去年の秋から「作家のペンと家」というシリーズを始めていたのだ。ちょうど祖父・菊池寛が文藝春秋を創立して今年の1月で100年が経つ。その企画に菊池寛と彼の終の棲家を扱いたいという編集部の依頼だった。私は、今までに誰にも話さないでいた、取っておきのエピソードを記者に話した。写真は、私が祖父に抱かれた写真も使うという。

翌朝、彼の店に立ち寄った私に左手の親指の痺れを彼は嘆きながら喋った。何だ、日頃の悪事をちゃんと神様は見ていてお灸でもすえられたんだよ、私はからかった!
 
そして今日、彼の左手親指は、ミイラのように包帯で固められていた。あまりにも痺れと痛みが酷いので医者に行きレントゲンで診たら、親指の骨が綺麗に真ふたつに折れていたという。
やはり神は、ちゃんと見ているのだ!若い頃の彼の悪事の全てを…!