『月刊 文藝春秋』が100年! | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp | honya.jp

閉門即是深山 408

『月刊 文藝春秋』が100年!

祖父・菊池寛が大正12年の1月に新雑誌として創刊した『月刊 文藝春秋』が、来年1月号で100年経つ!
間違わないで頂きたいことは、昔と違って“月号”と“発売日”はどの雑誌もずれていることだ。きっと前月に発売することによって、読者に“新しさ”を持ってもらえると先人たちが考えたのだろう!よって、『月刊 文藝春秋』1月号100年記念号は、今年の12月10日に書店に並ぶ。

大正11年、祖父34歳の12月に菊池寛は、この秋に引っ越しをしてきた小石川区林町19番地の借家から8歳年下の小説家佐々木味津三宛てに手紙を出した。佐々木味津三は、明治29年生まれ本名を光三と書いた。明治大学を卒業し、雑誌『大観』に『馬を蹴り殺した少年』を発表、報知新聞に『呪わしき生存』を連載し、菊池寛に見出され『文藝春秋』創刊号から編集同人となった。後に彼は、大衆文学に転向して今でも時代モノの好きな読者の口にのぼる作品『右門捕物帖』や『旗本退屈男』などを書き残し昭和9年に急性肺炎のため高円寺の自宅で没した。『旗本退屈男』は、市川右太衛門が主役で映画やテレビになり、『右門捕物帖』は、『むっつり右門』シリーズとして嵐寛寿郎のおハコのひとつとなった。ここに、『月刊 文藝春秋』の創刊前に、祖父が佐々木味津三宛てに書いた手紙をご披露する。

「今度、道楽半分に小さい文藝雑誌を出さうと思つてゐるのだ。雑文ばかりで、十六頁のパムフレツトだ。大いに君及び蜘蛛の旧同人諸君にも、樸議をして貰いたいだが、何うだ。一人三枚か五枚で、辛溂なものが欲しいのだ。出版費用は、僕が負担し、一部十銭で売り売上高を原稿料として配分する。正月号から出すつもりで、第一の〆切はこの十二日位にしたいのだ。友人、及び旧新思潮の連中などにも援助を求めるつもり。賛成者が少なければよすゆえ、当分ヒミツにたのむ。」

手紙を読んだ佐々木味津三は、次のように書いている。「依然として原稿は賣れず明大の政治科出身では學閥はなし、文壇的の先輩もなし、手引きもなし、全くの孤立無援で、あけても暮れてもまごまごし乍ら只ひとりの頼りの菊池氏のところへ出入りしてゐるうちに、突然、雑誌を出すから同人になれといふお手紙があツた。(中略)同人雑誌を出したり出さなかったり、これ又まごまごしてゐたので、その同人一同束になツて馳せ参じろといふ手紙である。(中略・・・佐々木氏は同人たちの所を廻り)あくる早朝速菊池氏のところへ駆けつけて、一週間内に原稿を揃へろといふ命令をうけた。あの人は今でもきツと、帯をしめたやうなしめないやうな恰好でぶらさげ、足袋のコハゼをはめたやうなはめないやうな恰好で突ツかけてをられることだらうと思ふが、そのときもすこぶる怪しげな姿で細い聲をし乍ら言ツたものである。
「ポケットマネーの二百圓はどうにでもなるからね。それで出すんだ。牙城といふ題はどうだらう。君、君、いかんかね。」といふのを、いかんです。文藝春秋がいいでせう、といふことになツて、ふらふらとついた名が今の廣大もないこの文藝春秋である。