『文春の流儀』| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 374

『文春の流儀』

文春砲という渾名は、いつ付いたのだろう?文藝春秋は、私が長年勤めてきた雑誌社である。もちろん本も出版しているが、私は敢えて雑誌社と呼ぶ。それは、私の祖父の菊池寛が大正十二年の1月に月刊誌として『文藝春秋』を創刊したからである。

出版社には、おのおの個性がある。新潮社は、出版造りが上手い。角川書店は、最初に角川文庫と称して文庫を創ったから文庫本が豊富で、作りも読者に馴染んでいる。

講談社の歴史は、古く1909年明治42年に野間清治によって大日本雄辯會として設立され弁論雑誌『雄辯』を出版した。そして、1911年雑誌『講談倶楽部』を出版。その後、社名を講談社と変更した。今では、三菱グループのひとつになっていると聞く。

光文社は、講談社の子会社として生まれた。講談社が出せない本、当時はノベルスのような本を出版していた。これもお馴染みのカッパ・ノベルスである。講談社は、幼稚園生から中学生向きの学年誌を出していた。活字好きの少年には、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズ『少年探偵団』を送った。

漫画から現在のコミックスを世に送り出したのは、学年誌をもっていたので当然だと思う。昔は、講談社のビルの中に光文社があり鉄腕アトムなどの漫画本を出版していた。小学館は、学年誌や子供向けの辞書などを出していた記憶がある。比較的固い雑誌社だった。

読者ターゲットは、学年誌を持っていたので子供たちであった。その層の読者や作家を使って本体ではなく、柔らかい漫画、そして、読者や漫画家が年齢を重ねるとその年齢にリンクしたコミック雑誌を作り始めたのが小学館の子会社集英社であった。

また、集英社のイメージを壊すような作品を出すために集英社の子会社として創立したのが、祥伝社である。中央公論の歴史は、もっと古い。1886年、仏教徒の綱紀粛正を目的に『反省会雑誌』が創刊、1899年明治32年1月より宗教色を排除して中央公論社の名を変えて月刊誌『中央公論』や『改造』が生まれた。芥川龍之介も菊池寛もお世話になった出版社である。この『中央公論』と『文藝春秋』が2大総合雑誌が大人雑誌としてしのぎを削った。

文藝春秋の菊池寛の『文藝春秋』の創刊の辞である。「私は、頼まれてものを云ふことに飽いた。自分で、考へてゐることを、読者や編輯者に気兼なしに、自由な心持ちで云つて見たい。友人にも私と同感の人々が多いだらう。又、私が知つてゐる若い人達には、物が云ひたくて、ウヅウヅしてゐる人が多い。一には、自分のため、一には、他のため、この小雜誌を出すことにした」

最初の頁は、4段組で、この言葉が飾り波罫で囲われ、2段目から、レギュラーになった芥川龍之介の『侏儒の言葉』で始まっている。菊池寛は、当初から「現場主義」を唱えた。今日でも編集権は、編集長が持ち、社長であっても犯す事の出来ない重い権利を現場に持たせているのだ。

この3月に『文春の流儀』を出版した元編集長からのメールに「週刊文春はよくやったと思いますが」と書かれていた。私も意見で、権力を持つ者の不正を暴くのがジャーナリズムの役目だからだ!新聞は何を?