仮歯 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 276

仮歯

大好きなきんぴら牛蒡が食卓に並んだ。
牛蒡(ごぼう)は、身体の掃除をしてくれるし、旨い。よく居酒屋で出てくるような軟なきんぴらではない。自宅で作ってくれるのは、歯応えがあり、カリカリと音が聞こえそうなきんぴらなのだ。家のきんぴらは、私の好物のひとつだ。これだけでも、私は家人より先に逝きたいと思う。私がひとり残されても、あのきんぴらが食べられないからだ。

皿の上のきんぴらを食べていたら、前歯に牛蒡が突き刺さった。歯に牛蒡が突き刺さる?変だぞ!呑み込んで気がついた。前歯が抜けたために、本歯が出来あがる間に仮歯を入れていたのを思い出したのだ。きんぴらと共に、その仮歯まで呑み込んでしまったようだ。きっといつの日か、出てくるだろうと思っても、多少心配である。食道に、あるいは、胃に、小腸か大腸か、また出てくる所のほんのちょっと手前あたりかに歯が刺さってしまったらどうしよう?そのために、あの嫌な口から入れる胃カメラか、下剤のペットボトルを2時間かけて飲み、チューブをお尻から入れる内視鏡カメラを使わねばならないのか。それよりも、病院へ行って何て言えばいいのか?若く可愛い受付にいる看護師さんに、歯がお腹に入っているので覗いて探してみてください!と言えばいいのだろうか?柱の陰で可愛い看護師同士が、あのジジイ歯を探してくれだって、ヤァネ~ぇ!だからジジイは嫌なのよ!とコソコソと話す映像が浮かんでくる。たまらん!そんな屈辱に耐えきれない。しかたがない、忘れることにしようと思った。

その後、洗面所の鏡を見て驚いた。もともと上の歯は、前歯が2本残っているだけでビーバーのようである。下は、前歯4本は健全だが、左右の奥歯は無い。実は、59歳で亡くなった祖父は、その歳でもう総入れ歯だったし、私の父もふたりの叔母たちも若くして総入れ歯だった。歯か歯茎の弱い家系なのだろう。70過ぎて、前歯上下合わせて6本も健在なのだから良しとしなければ、と思っていたら先日嘘のようにスーっと前歯の1本が音も無く、予兆も無く、痛くも無く、抜けた。大ぜいのお客の前で講演をせねばならない数日前の出来事である。
入れ歯だと喋りにくい私は、講演の時は、入れ歯をはずす。しかし、大きな口を開かないかぎり、そんなに違和感は無いはずだった。しかし、前歯1本だけでは、あまりにもみっともない。私が通う歯科は、名医である。高名な役者一家が通って来るからで、歯は、役者さんにとって大事なモノだから当然名医を選ぶ。だから、名医である。名人上手である。最初の仮歯は、頑丈で普通の歯科だったら等に抜け落ちても可笑しく無いほどの丈夫さだったが、歯型を作るために一度抜いた。そして、きっと軽く着けたのがいけなかった。

今日、本歯が入った。入れるのに、ものの10分だった。もう大丈夫と思った瞬間、あの腹に入った仮歯を思い出した。もう出たのだろうか?