菊池一族が儒学者になったわけ | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 254

菊池一族が儒学者になったわけ

私の祖先は、武士であった。
『新日本紀』や『後拾遺』『新古今』にも書かれているが藤原北家九条流氏族、中関白道隆の子、藤原隆家の子の藤原政則が、大宰府の官として、肥後熊本の鞠智城に入り、菊池一族の祖となった。藤原姓から、住み着いた菊池を姓にして室町時代の後期までの約450年九州の豪族として君臨した。

政則の子、藤原則隆は、平安時代1070年に大宰府天満宮領赤星荘の荘官となった。
則隆には、4人の息子がいた。長男は、西郷政隆と言った。西郷どんの祖先である。次男は、小島保隆といった。三男は、兵藤経隆であり、四男は、合志経明という。三男藤原経隆(菊池経隆)が菊池を名乗り一族を継いだ。
私の祖は、天皇家を守る藤原武士である。最初は平家に付いたが、袂を分かち源氏側の武士となった。

話は、昭和17年に移る。
私の祖父も自分のルーツ探しをした形跡がある。17年小田原駅長松本宇一の殉難碑の除幕式があった。その碑は、現在でも小田原駅構内の一角にあると聞く。この松本駅長と祖父は親しい仲であった。よって碑文の撰文、筆跡を祖父が担当している。
逸話は、こうである。その松本駅長から、系図探しの名人小田原中学教師中野敬次郎を紹介してもらった。祖父は、除幕式のおり中野に祖先を探してはくれまいか、と頼んだ。「僕の祖先も小田原出身で北条の家臣であったのですが、詳しいことが解っておりません。しかし僕の家の遠祖は南朝の忠臣の九州肥後の菊池氏なので……」中野から答えが返ってきた。

北条氏康当時の小田原分限帳に、菊池掃部丞、菊池郷左衛門、菊池右近丞の名があるという。小田原北条氏康の家臣に菊池七兵衛武宗がいた。北条氏直が太閤秀吉によって討たれて高野山に幽居されたとき、共に同行したのが武宗の子菊池武茂だった。
北条氏直の歿後、武茂は、高野山で断髪をして京都で隠居をしている。その子菊池武方の時から、この菊池一族は、武家を捨てて儒学者となった。武方の儒学者としての号は、菊池元春といった。
元春には、ふたりの息子がいた。武倍と耕斎である。江戸時代の漢詩人菊池五山も祖父も菊池耕斎の血筋である。武方は、武倍に家督を継がせた。武倍の号は、崇心斎であった。
崇心斎は、最初江州本多家に就職するが、そこには多くの儒学者がいた。そこで讃岐に来た。高松城の儒学者として高松のお殿様に儒学・朱子学をお教えし重用されたのが、息子の菊池八右衛門武賢で、号は黄山。次が室山、そして守拙。彼は、寛政の三博士のひとり菊池五山と兄弟である。祖父の曽祖父の号は、藻州といい、祖父のお爺さんの号は、惕所であった。私の曽祖父は、菊池武章さんで、儒学者の号は、惕所さんというわけだ。

なぜ、こんなややこしい事を書いたかと言えば、家を整理していたら貴重な古文書が出て来たからだ。今、博士たちが紐解いてくれているらしい。結構重要な資料の発見となるかも知れない。発表されるかも!