一害なくして百利あり| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 239

一害なくして百利あり

私は、救急車に乗せられ救急病院に運ばれた。そして、緊急手術となった。
ちょうど30年前に胆石が溜り胆嚢を除去する開腹手術をした。それが、今になって手術をした傍に綻びが出来、ヘルニアを起こしたらしい。こんなことでも生死の境らしい。翌朝、麻酔が醒め、目が覚めた時、私の身体はチューブだらけになっていた。

手術の翌朝から、私は歩き出した。医者の出来る事は、全てしてくれたわけだから、後は自力である。病院内では、歩くことしか出来ない。その日は、朝、昼、晩とやっと5百メートル歩けただけだった。次の日は、1キロ歩くことに決めていた。足にまかれた何かに繋がるチューブが取れた。次に鼻に入れられた酸素ボンベからのチューブを取らねばならない。マスクをしているから顔は判らないが優しい眼をしたナースにどうしたら外れるか訊いてみた。「あなたは、煙草を吸われるでしょ。だから、酸素の供給量が足りないのよ、本当は数値が95%以上ないといけないのに、足りないから外せないの!」

ちょっとまった!煙草の所為にするなよ、腹切りしたばかりで吸いこめって言うのは、無茶だ!それを医者も看護師も全て煙草の所為にしやがって、冗談じゃねェ!と喉に呑み込み「一度外してはくれめェか?かならずや、自力で95%以上にしてみせるからよぅ」と何の根拠もなく言ってみた。ナースは「ちょっとだけよ!だめだったら、また繋ぐからね!」としぶしぶ外してくれた。私は、歩いた。50メートルおきに立ち止まり、NHKの朝のラジオ体操のように3回程大きな深呼吸をしながら。何キロ歩いただろう。何回深呼吸をしただろう。ベッドに戻って、先程のナースを呼んだ。「さぁ、測っておくれでないか、だめなら獄門でも何でも受けてやろう!」ニコリと目で笑いながらナースは、計測器の付いた昔の洗濯バサミのような物を私の指に挟んだ。笑顔らしい目は、たちまち変わっていった。「きゅ、95以上!こ、この怪物め」
だろ?医者は、煙草を悪魔のような悪者にしたてるんだ。何か悪者を作らねば自分の藪さが判ってしまうからな。声には、出さなかった。

以前友人宅に同級生が集まったことがあった。一緒によくゴルフをやっていた医者も来た。入ってくるなり「灰皿はどこにある?」と彼は吠えた。私とゴルフをしている時には「お前、煙草だけは止めろよ」と執拗に言っていた奴だ。「あんな事、俺に言っていてお前医者なのに何時から煙草を吸うようになったんだ」私が言うと「新しいカミさんが吸うからな」とペロリと舌を出した。

ナースが鼻から酸素ボンベからの管を抜いたのは、その晩のことだった。点滴のチューブも外された。私は、自由になった。おかげで病院のお仕着せの寝間着の上にジャケットを着て、病院の向かいにあるドトールに通った。煙草を吸うために!煙草のおかげで、どんどん快復していった事を記しておく。