芥川龍之介と菊池寛 その1 | honya.jp

閉門即是深山 195

芥川龍之介と菊池寛 その1

高松にいた祖父菊池寛の家は、彼が子供のころ大変貧乏だった。なにせ江戸時代から明治になり版籍奉還、廃藩置県と高松藩の儒学者として徳川家のお殿様の先生をしていた家柄を根こそぎ奪い、突然の失業に追い込まれた。子供は7人、祖父は四男坊だった。親子9人が、小学校の用務員(昔は、小使いさんと呼ばれていた)の給料では、ろくに飯も食えない。教育費は全て長男のために使って菊池寛は、教科書も買ってもらえなかった。そんな中で旧制中学を出た彼は、香川を出て金のかからない東京高等師範学校(現・教育大)英文科に入った。すぐに辞めて法学者になるとの約束で遠い親戚にあたる高橋家に養子に入り高橋寛の名で明治法科学校(現・明大)に移った。養父の目を盗み早稲田大学に入っていたようだ。そして、社会人になった長兄の支援を受けてやっと念願の第一高等学校第一部乙類(帝大文科、現・東大文学部)に入った。そのクラス仲間に、佐野文夫、久米正雄、松岡善譲、恒藤恭等と共に芥川龍之介がいた。
後に小説家の宇野浩二が筑摩書房から『芥川龍之介』という本を上梓している。その中を覗くと、【私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった。親切な人であった。しみじみした人であった。いとしい人であった。さびしい人であった、と、ただ、それだけが、頭に、うかんでくるのである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである。時には、なつかしくてたまらない気がするのである。】と、書いている。

芥川龍之介は、明治25年(1892年)3月に東京市京橋区入船町8丁目(今の中央区明石町)に牛乳製造販売業を営む新原家の長男として生まれた。現在の聖路加病院の敷地内に芥川龍之介生誕の地という立て札があり、牛を飼う牧場があったという説明がついている。因みに新原家は、新宿にも牧場を持っていたらしい。母親の精神の異常が元で龍之介は、本所区小泉町(今の両国)にある母の実家・芥川家に預けられ伯母に育てられた。母親の亡くなった11歳のころ母の実兄芥川道章の養子となった。祖父菊池寛が友人から頼まれ質入れしたマントが、その友人が盗んだものだったが、友人を庇って帝大を追放され京大に編入した「菊池寛のマント事件」である。ちょうどそのころ帝大の同人誌・第3次、第4次『新思潮』を久米正雄、松岡譲、山本有三、佐野文夫、芥川龍之介、菊池寛等によって復活した。当時作家として世に出る為には、流行作家の後押しが必要だった。この『新思潮』も夏目漱石に読ませるつもりで創った。大正4年学生だった芥川は『帝国文学』に「羅生門」を発表、翌年に第4次『新思潮』に「鼻」を発表、漱石の後押しもあり帝大在学中に華々しく作家デビューした。