老夫婦 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 180

老夫婦

「ションベンの匂いが臭せぇんだよな!」
前回のバンドの練習スタジオの中の会話である。
「何だよ、孫の小便の臭いなんか可愛いじゃないか」と私がいうと
「そうじゃないんだ、かみさんが時々チビリやがってさぁ~!」
「お前だって、チビるときがあるだろう?」
「そりゃそうだけど、臭せぇもんは、臭せぇんだよ!」彼がいう。
「老人用のおしめパンツでも買ってやりゃいいじゃないか」

私は、このふたりが結婚する前から知っている。とても仲陸しいカップルだった。50年以上前は、この日本は貧乏だった。若者も金がない。世間にも金がなかったから、恋人同士楽しむ場所がなかった。古い時代の延長と新しい息吹が交差した時代だったから、大人は世を謳歌し、若者はその犠牲となった。恋をすれば、抱き合いたい。現在では、人前でも、またふたりだけでも抱き合える場所は、けっこうあるだろうが、その時代の大人たちは若者に禁欲をせまった。女性は、結婚するまで処女性を失ってはならない!大人たちは、自分の悪事を隠し若者に無体な要求をした。

「お前には、世話になったなぁ!」急に昔を思い出したのか、彼がつぶやいた。私がとうに忘れていた昭和30年代の終わりころから40年代の初めのころの話だろう。彼らカップルは、知らぬ間に私の居ない隙に私の部屋に鍵をかけベッドを使い逢う瀬を楽しんでいた。一度学校から早く帰ってきて、自分の部屋が開かずにそばの喫茶店で時間をつぶしたこともあった。たしか記憶の淵に「使ってもいいが、後かたずけぐらい自分たちでしておけよ!」といったことを思い出した。
そのカップルも、50年以上一緒にいると「ションベンが臭せぇ!」と言うのかね。あんなに惚れあって、ベタついていたカップルが。

「いや、うちなんか家庭内別居みたいなものだよ、ヨットが俺の逃げ場所だ!」もうひとりが口を入れた。「だって、こんど一緒にハワイに行くんだろ?」私がいうと「それが困るんじゃないか、ひとりなり、友達と一緒ならいいが、毎日ギャーギャーの相手してみろ、今から憂つで憂つで、何で高い金だして憂つを背負いこまなきゃならないんだよ!」
そんなこと知ったことではないが、彼のほんとと思われる顔を見ていると気の毒に思う。しかし、皆同じ齢で、同じころに結婚しているし、別れてもいないのだ。

「いまさら、別れろ切れろなんて互いにめんどくさいからなぁ、ションベンの臭せぇ匂いくらい我慢しなきゃなぁ!」
切実な呟きに思わず微笑んでしまった。