南国忌| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 178

南国忌

先日文藝春秋時代の先輩から電話連絡を貰っていたから、そうじゃないかなと思った。
一通の封書が、私の手元に届いた。差出人のお名前は、知らない方だった。
出だしは、その先輩から私を紹介してもらったので、この手紙を出す。実は、来年2月18日(日)の第36回「南国忌」の講師を引き受けてもらいたいとの趣旨が書かれてあった。
「南国忌」とは、祖父菊池寛の大親友 直木三十五氏の法要の名称である。直木三十五は、ペンネームで直木さんの本名は、植村宗一(うえむら そういち)といった。植村の「植」の木偏と直を重ねて「直木」としたのは有名な逸話である。

直木さんは、昭和9年2月24日夜11時過ぎに43歳で結核性脳膜炎で亡くなられた。今から83年も前の話である。それが、なぜに第36回なのだろうか?だいぶ後になって、昭和56年ころに、きっと有志諸氏がこの「南国忌」を始められたのではなかろうか?私も「南国忌」の存在は、以前から知っていたが、どなたからのお誘いもなかったので参加を控えていた。「参加を控える」などとは、体が良すぎる。自分から「僕は、菊池寛の孫です。祖父と直木さんは、大親友だったから、僕も仲間に入れてください!」なんて言いたくなかっただけである。祖父と直木さんとは、祖父が32歳ころ、直木さんが29歳だった大正9年の11月に初めて出会っている。その翌年、直木さんはペンネームを直木三十一にした。それから毎年ひとつずつペンネームを変えていった。

「南国忌」は、直木三十五が昭和5年(1930年)の39歳の時の6月12日から翌年の10月16日まで『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』に連載され、この作品で一躍人気作家となった『南国太平記』から付けられた名前だろうと思う。ご依頼の手紙は続く。横浜の金沢区富岡東にある長昌寺で講演の前に法要があるらしい。その後で、同じお寺の本堂で13時15分から1時間半くらいの講演となる。と書かれていた。ふと、不思議な話だなぁ!と私は思った。いや、けしてイチャモンではない。直木三十五は、確か明治24年に大阪の南区内安堂寺町通2丁目で生まれている。そうか、直木さんの身体の具合が悪くて木挽町に菊池寛と文春がお金を出して直木さんが住んでいた家は、仮の住まいだったのだ。その時、あまり帰らなかったが神奈川県金沢区富岡町に新居を持っていたのだ。で、金沢区富岡の長昌寺に眠るか!
何か自分の親友にでも会えるような思いで参加させて頂くご返事を投函した。