鼠| 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 159

鼠といってもただの鼠ではない。戦前から生き続ける大鼠ミッキーマウスのことである。

Mickey Mouseは、昭和3年(1928年)にウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスの手によって生まれたと聞いたことがある。
ディズニーは、自分が飼いならした鼠を研究し、鼠の醜い部分と彼が思っていた耳や口や足などを大きくして、ポイントを付けて考案したのが1927年だった。ということは、Mickeyは今年89歳ということになる。

なぜ急に私がミッキーマウスを書きだしたのかと言えば。

太平洋戦争の末期に永田雅一に頼まれて、祖父・菊池寛は映画の大映(大日本映画製作株式会社)の初代社長になった。日本が参戦し、あらゆる品物が軍需用品とされた。映画のフィルムも軍需品に指定された。昭和17年(1942)のころだった。当時の映画界は、文化映画の映画会社だけでも二百数十社を数え、劇映画製作会社でも、松竹、東宝、日活、新興キネマ、大都の五社、別にプロダクションとして東京発聲、南旺映画、宝塚映画、興亜映画、大宝の五社、合わせて10社があった。ちょうどそのころ、国内は臨戦体制が樹立されたときだった。情報局は、軍需に必要な物資は民需に廻さぬ方針をとった。上記したように映画用フィルムの原料は軍需品となっていた。そして、映画界が臨戦体制に協力せねば、映画の製作を即時停止すると、国は社団法人日本映画協会に通告してきた。昭和16年8月である。国は、全てある映画関連会社を合併統合して2社にせよ!と迫ってきた。
いくらなんでも、これだけある映画関連会社を2つにまとめるのを無理であった。そこで協議の結果、国に3社にすることをのませるように仕立てた。国との交渉役を日本映画協議会は、当時京都の撮影所長をしていた永田雅一に任せた。国や軍部、そして情報局、文部省、内務省は、しぶしぶその条件を呑んだのである。
その結果、日本の映画会社3社が生まれた。東宝、大宝、南旺、東發、宝塚が合併した東宝と、松竹、興亜が組んだ松竹と、日活、新興キネマ、大都の3社が集まった大日本映画製作株式会社の大映である。

永田雅一の実家は京友禅の染め物の染色(インク)の問屋であった。若い永田は、京の任侠組である千本組に属したこともあったと聞く。
その頃の永田は、現在の暴走族程度であろうが、兇状持ちには変わりが無い。足を洗い、偶然訪ねた撮影所で映画の魅力に取りつかれて業界入りをし、いろいろな辛い経験をしてここまで来たが、千本組に属していた過去は消せない。そして、今回は国に歯向かったのだ。常に警察の目は、彼を追っていた。大映が出来、最初の会議をおこなったときに、会議場に多くの警察官がなだれ込んできた。永田雅一は、刑務所の中で考えた。このまま自分が大映の社長を受けることは出来ない。誰か適任者はいないものかと。
ひとりひとりの顔を思い浮かべたに違いない。浮かんだひとりに、京都の競馬場を案内したことのあった作家の大御所菊池寛の顔があった。よし、決まった!大映の初代の社長は、菊池寛に頼むしかあるまい!

『大映十年史』に菊池寛の親友で、後に大映の運営に協力した作家吉川英治が文章を寄せている。

「『永田に見込まれてしまったのさ。大谷さんもすゝめるしね、ぼく、やることに極めたよ』大映の初代社長の就任をひきうけたとき、菊池氏はそんなふうな別に感慨もない呟き方をした。それが友達への報告のつもりらしい。いったい本当に乗気なのだか、厭々なのか、例のごとくあの人の表情だけでは分らない。
就任は、昭和18年3月だったと思ふ。
新聞も世評も、みな意外のやうに書いたし、また有り得ることのやうにも云った。何か、適材が適所にすわったといふ感じはジャーナリストなら誰でもひとしく持った事だからである。
然し、友人間には、『いゝかねえ。映画になぞ、踏みこんで』と、菊池氏の晩節のために、危惧する者がいないでもなかった。
殊に、氏あっての文藝春秋社ともいはれてゐた文春の同人たちは、多少の動揺も事実あったのである。(中略)
大映社長になってから一、二ヶ月ほど後である。ぼくが訊ねてみた。
『映画の仕事は、おもしろいですか』
『うん。おもしろいね。思ったよりおもしろいよ』(後略)」

祖父・菊池寛は、息子英樹に「映画業界で仕事をすれば、食えない若い作家たちの仕事をつくれるかもしらんからな」と言っていたそうである。
祖父の死後、永田雅一が率いた大映は、1971年、昭和46年12月23日に倒産をした。が、徳間書店が引き継ぎ、その後角川映画となっている。

私は、5年前に白水社から『菊池寛と大映』を上梓した。その取材のおり、今や鬼籍に入っている永田雅一氏の話を聞くためにご子息の永田秀雅氏に会った。全ての取材が済み別れ際に秀雅氏が私にこんなことを言った。「父・永田雅一が亡くなる少し前だったかな、父は、東京湾沿いの浦安の土地を八百万坪も買って持っていたんだ。そしてね、自分が死んだら北炭とディズニーにあげてくれと言ったんだよ」
ウォルト・ディズニーと永田雅一は、親友になっていた。Mickey Mouseの漫画映画は、大映の映画と映画の合間にやっていたことを思い出す。