祖父・菊池寛のルーツの旅(その十一) | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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祖父・菊池寛のルーツの旅(その十一)

さて、祖父から父が聞いた幾つかのキーワードを持って無謀にも漕ぎ出した「祖父のルーツを探す旅」もいろいろな方々のご助力を借りて繋がってきた。ここまで繋がれば各時代のひとたちを書くことも出来ようが、もともとオープンのブログという公のツールを使って「祖父といってもよし、自分ともいってもいい、ルーツ探し」をさせて頂いたのだから、一応中〆をしようと思う。次のテーマは「祖父・菊池寛の人生」を書ければ書きたい。
このルーツの旅は、早逝した長男勇樹(ペンネーム菊池勇生)が書くはずだった。が、この世に今居ないために、彼に成り変わって私が「旅」に出た。今では、次男の未尋へのプレゼントとして書いておきたいと思ったからだ。

さて、少々宣伝になるが、彼女もこのルーツの一員だから、この項に書いてもよろしかろう。何年か前に家人である菊池未生(ミオ)が文芸社から『癒しのラブソング』という一冊を上梓した。そして、この10月にやはり文芸社から『天国へ届けたいあなたのメッセージ』(700円+税)という本を出した。「大切な人との時間が、永遠に喪われた悲しみ!誰にも訪れる辛い別れを詠い、やがて感謝の気持ちで受け入れる、亡き人へのメッセージ」。なかなか評判がいい。画家の彼女が、自分の詩に絵をつけている。紀伊國屋書店やアマゾン、またブックサービスKK(0120-29-9625)や文芸社著者サービスセンター販売窓口(03-5369-1561)で買えるという、菊池未生の本の宣伝です。

さて「祖父・菊池寛のルーツの旅」の最終章で、最後にお浚<さら>いをしておきたいと思う。
3世紀末に中国で書かれた『三国志』の中に「魏志倭人伝」がある。邪馬台国、卑弥呼が出てくる、あれだ。その話の中に邪馬台国の南に狗奴国(クナコク)という国があった。その狗奴国の王の官に狗古智卑狗(クコチヒク)がいた。このクコチヒクの末裔が鞠智(ククチ キクチ)となった説がある。奈良時代に、その一族は、現在の九州肥後菊池郡のあたりに住んでいた。平安時代に編纂された『和名聚抄』には、菊池市を「久々知」と註している。

平安時代の中期~後期にかけて、藤原隆家の子藤原政則が肥後菊池市に土着した。そして、その子供たちから菊池一族が始まった。1代目当主は、菊池則隆である。平安時代1070年、大宰府天満宮領赤星荘に荘官として、肥後菊池に来て、深川に館を構えて菊池姓を名乗った。2代目当主に兵藤経隆がつくが、この兄弟に西郷政隆というひとがいた。このおひとの末裔が西郷隆盛である。経隆が、菊池一族の繁栄の基礎を築いたといわれている。3代経頼は、現福岡県、筑前に進出し一族の勢力を拡大した。4代経宗は、1109年、鳥羽院の武者所として京都に行った。5代経直は、平安の時代西暦1122年、父経宗と同様武者所となった。鳥羽天皇から並び鷹の羽紋をもらい、これ以降日足紋から家紋を変更したという説がある。75歳と当時では長寿だったが、落馬して死去。6代目隆直は、1182年、平家の九州支配に反抗し、大宰府を攻めた。が、失敗に終わる。1185年の源平合戦のとき、平家について壇ノ浦の戦いで源氏と戦い敗れてしまった。7代隆定は、あまり書くべき逸話がない。武者所に招聘されている。肥後守として領内に八幡宮や産神社などを建立している。

鎌倉時代に入ると8代当主能隆は、承久3年1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権であった北条義時に対し討伐の兵を挙げた。承久の乱、承久の変である。このとき、能隆は後鳥羽上皇方に付き、戦に負けて幕府側に所領を削られてしまった。9代の隆泰の時代は、鎌倉幕府の最盛期の時だったから幕府相手に菊池一族は、静かにしていたようだ。奥方たちも多く、その子武房や有隆、康成らが日本を救うことになる。隆泰の次男10代武房の時代、2度の元寇、1274年の文永の役と1281年の弘安の役があった。蒙古襲来である。モンゴル帝国の皇帝はクビライ、立ち向かうは、鎌倉幕府執権は北条時宗で指揮官のひとりに菊池武房がいた。そして、蒙古軍の日本上陸を阻止するなどの大奮闘をした。11代時隆の時代にお家騒動が起きた。叔父の武本が菊池一族を継ぐと言いだしたのだ。

12代武時、13代武重、14代武士、15代武光、16代武政、17代武朝は、明治天皇の命により、南北朝時代よくぞ天皇家を守ったとの功績により熊本県菊池市隅府に菊池神社が建立され、そこに眠っている。菊池寛が脚本を書いた『菊池千本槍』は、この時代の話である。この17代武朝の末裔に祖父・菊池寛がいたのだ。武朝の子で、小田原北条氏康の家臣となった菊池武宗がいた。次の当主は、北条氏直の時代に氏直が太閤秀吉によって撃たれて高野山に幽居されたとき共に同行した菊池武茂だった。そして、次の菊池武方のときから儒学者となっていく、号は菊池元春。元春の息子菊池耕斎(東匀)その三男で昌平校学頭を務めた菊池半隠が継いでいく。菊池心斎、正宅、そして高松藩儒となった菊池黄山(武賢)、菊池室山、ここで菊池守拙(綱武)と菊池五山家とは兄弟らしい。祖父は、菊池守拙の家、菊池藻洲(武幹)、菊池惕州(註・高松市のホームページには、菊池惕所とある)。儒学者半隠、黄山、室山、守拙、五山、五山の子秋峰、藻洲、惕所(惕州)までは、江戸時代の人々だったろう。祖父・菊池寛の父武脩の時代か、菊池寛の祖父惕所(惕州)の時代に明治維新が起こった。高松藩儒の職を菊池家は、一夜にして失ったのである。微禄ではあったが、3両5人扶持の藩儒であったので、香川郡七番町六番戸に二百坪位の家はあったが、武脩の暮らしは、みじめであった。
菊池寛は、8人兄弟の四男坊であった。父武脩は、小学校の庶務係(小遣いさん)をしていた。妻カツは、極貧の中、子供たちを育て、暮らしを保っていた。