祖父・菊池寛のルーツの旅(その六) | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

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祖父・菊池寛のルーツの旅(その六)

第155回芥川賞・直木賞が決まったので、前号は寄り道をしてしまった。「ルーツの旅」は、南北朝時代でとまったままだ。今年は、九州に大地震があったし、連続して大雨の災害にもみまわれた。熊本県菊池市である。

1868年(慶応4年)皇室に忠義を尽くしてきた菊池一族を称え、明治天皇が熊本藩に菊池一族のために菊池神社を造らせ、菊池武時、武重、武光、武政、を初めとして以下26代が祀られている。第13代武重の弟、14代武士、15代武光兄弟には、武敏がいた。武敏は、1335年(建武2年)に阿蘇、秋月、蒲池、星野各家と共に多々良浜の戦で足利と戦ったが敗北をして、熊本に逃げ帰った。尊氏が京都を攻めると、菊池武敏は再び兵を挙げ京都を脱出した武重と建武4年に合流、足利方と戦った。そして、九州も南北朝の争乱に巻き込まれていった。
武重、武敏兄弟の死の後、菊池氏の勢力は沈滞していった。吉野に南朝を建て住んだ後醍醐天皇の皇子が征西将軍として九州に下向、1341年に薩摩谷山に上陸した。その2年後、菊池武光が皇子を迎え、その皇子懐良親王は隈府城に入城した。何か小難しくなってきたでしょ!

京都では、足利尊氏とその弟の直義の関係が悪くなり、対立が深まってくる。1349年には、尊氏の弟直義の養子足利直冬が九州に下向し、九州は、三つの勢力に分断されたが、足利直義が失脚し直冬が九州を去ると、懐良親王は、菊池武光やその兄弟(深川)武義、武澄の働きで大宰府を攻略した。凄い話でしょ、菊池一族は、懐良親王を背負って九州を乗っ取ったわけだ。そのままだったら、博多だって、長崎だって、なんと大分で有名な温泉地由布院だって私のものだったかも知れない。

これに反対した幕府は、1371年に新たに九州探題を造り今川貞世を任じた。菊池武光は、今川貞世と戦ったが、今川軍は強かった。そして、菊池一族は、大宰府を失った。15代菊池武光とその長男第16代当主武政が相次ぎ没し、武政の長男武朝が第17代を継いだが、1377年の蜷打の戦いで北朝が大敗、その後の戦いで負けっぱなし、ついに1381年に本拠地も追われてしまった。
1392年(明徳3年)の南北朝統一をチャンスに菊池武朝は和睦することとなった。菊池武朝が弱かったせいで、由布院は私のものにならなかった。
クヤし~ぃ!絶対にクヤしい!タダで温泉に入れたものを!あの有名な旅館玉の湯や、亀の井にタダで泊れたかも知れない。悔しい~ぃ!
武朝爺が弱かったせいダ!なんとなく嫌~な奴!

武朝クソ爺に3人の息子がいた。その長男18代の当主菊池兼朝も室町幕府に反抗的だった。時は室町時代になっている。私の祖父も息子たちも権力に反抗的である。私?私は比較的長い物に巻かれるタイプ。しかし、棚からのボタ餅が拾えないと悔しがるタイプでもある。しかし、室町幕府は、兼朝を肥後守護職に任じた。太っ腹~ぁ!兼朝にも3人の息子がいた。長男持朝が19代を継ぐ、これが良くない。かっこ悪い!あんなに反抗してきた室町幕府に揉み手なんかして、室町幕府に反抗した大友氏たちと戦って、大友氏が持っていた筑後守護職の置位などをぶんどっちゃった。大友さん、ごめんなさい!

菊池持朝には、5人の息子たちがいた。為邦、為安、詫摩為房、宇土為光、木野相直の5人である。長男為邦が、第20代を継いだ。この時代大友氏が幕府から罪を許された。筑後を、大友と菊池が治めることとなってしまった。これに反発した菊池為邦は大友氏と戦った。弱いんだからやめときゃいいのに戦ってしまった。今度は、菊池一族が幕府の怒りを買ってしまったのだ。馬鹿~ぁ!そうなるに決まっているでしょうに!そして、菊池は筑後守護職を奪われてしまったのだ!
筑後と言ったら、今の久留米や柳川のあたりだ!為邦爺さん、あんた弱いんだから、どうして強い大友さんと戦ったの?もし、うまくやっていたら今、私なんか柳川の旨い鰻をタダで食べ放題だったのに!最近、鰻の値段が高くなっちゃって、丑の日にだって鰻が食べられないんだよ!どうしてくれるのさ、為邦爺さんよ!

人は、貧すれば鈍する。日本の中での勢力が弱まると菊池一族は互いに一族の中での勢力を広げようとした。絵に描いたような馬鹿を始めたのだ。20代為邦の弟で宇土氏の養子になった宇土為光が、為邦の3人の息子の内の長男第21代菊池重朝に1484年に兵を挙げ、襲い敗れた。甥を襲ったのだ。そして、重朝が没した後の1502年にまた襲った。一族の中の権力闘争で、今の企業も力が無くなると権力闘争がおこる。今も昔も人間のやることは、同じであるんだなぁ!宇土為光に追われた重朝の長男で第22代当主菊池武運(能運)は島原に逃れ、1502年に為光を自害させた。叔父為光を自害させたものの、武運も傷を受け、それがもとで1504年に23歳で死んでしまった。菊池氏は、家督を主流から傍流が受け継ぐようになってしまった。23代政隆、24代阿蘇武経、25代阿蘇武包、26代阿蘇義武と続く。菊池氏は滅亡したが、肥後の国の豪族米良が菊池能運の直径の子供重為(重次)の末裔を名乗って江戸時代に交代寄合になり、明治時代には、この家系は菊池姓への復帰が許された。男爵になっている。庶流としては、西郷氏や赤星氏、詫摩、高瀬、千田、新宮、宇土、木野、米良、阿蘇、隈部、深川等々がいるが、将軍徳川秀忠が母西郷局や会津藩家老西郷頼母、薩摩藩士西郷隆盛も菊池氏の出であった。