黒子 | honya.jp

閉門即是深山 82

黒子

2週にわたって舞台のことを書くことになり、些か恐縮である。
先週は、日本P.E.N.クラブの80周年記念事業として最初の催し『ふるさとと文学』を初代会長島崎藤村にちなんで「島崎藤村と小諸」と題した信州小諸市で講演会やエンターティメントをおこなったことを書いた。
私は、その舞台の下手<しもて>で稽古風景を観ながらふと思い出したことがあった。

40年近く前のことである。
私が入社した出版社は、創業してからずっと“文士劇”なるものをおこなっていた。作家や漫画家による芝居である。
これは、出版社や作家・漫画家たちが年に一度読者に御礼のサービスをしようと企画されたもので、昭和初期から始まり私の入社時まで続いていたものだった。子供のころ関係者として母に手を引かれ観客として歌舞伎座や東宝劇場に行った覚えがある。
劇場では、2日間この文士劇をやる。1日目の夜から始まり2日目は昼夜の2度の公演だった。
『文藝春秋』や『週刊文春』という雑誌に告知を載せ希望者には抽選でご招待の切符をお送りする。2日目の千秋楽は、広告主や印刷会社、広告会社等日頃お世話になっている方々をお呼びするから、純然たる読者のご招待は2度の公演だけである。ただ、どうしても観たいという読者には、1日目の昼の稽古をお見せしていた。もちろんこの舞台稽古以前、2週間文藝春秋の中に仮設した稽古場で出演者たちは稽古を積んできているから、舞台稽古といってもなかなかの出来であった。

私は、入社2年目からこの仕事を手伝わされた。この仕事は、事業局の仕事の範疇であったが、プロジェクトチームがつくられ各部署から社員が集められる。
私の勤めは、舞台下手の全てであった。下手とは、客席から舞台を見て左手である。右手を上手と呼ぶ。座敷であれば、上手は床の間を背にする上座である。舞台内容によっても違うが、歌舞伎を一度でもご覧になったことのある読者ならお判りになるだろう。下手には花道もあるし、多くの芝居では役者の出入りは、下手が多い。よって下手担当は、かなりキツイ仕事である。
なんせ、素人芝居である。芝居をする文士たちの誰もが、自分のセリフも頭に入っていない。それに何処から出ていいのかも覚えていないのだ。
下手の黒子は、プロンプターもしなければならないし、出る場所に役者を連れて行き、出るタイミングにその背を押さねばならなかった。
黒子である私もズブの素人である。実に適当、いい加減であった。
しかし、それがまた客席の楽しみでもあったらしい。
応募は、かなりの倍率であった。今は、ディジタル化して7チャンネルになっているが、以前は12チャンネルのテレビ放送で放映もされていた。
楽屋の出入りは、厳しい。役者である文士たちは、楽屋入りの際、全てチェックされ外出を制限される。なぜなら逃げ出すことを未然に防ぐためだった。

時期は、11月末の2日間。東京宝塚劇場の11月公演が終わり12月公演が始まる間の2日を借りられたからだった。
想い出は、ある年の文士劇だった。
演目は、吉川英治原作のご存じ『宮本武蔵』宮本武蔵に扮した柴田練三郎が、梶山李之の佐々木小次郎と決闘をする「巌流島の決闘の場」であった。
舞台は、巌流島。板付けである。
板付けとは芝居用語で、緞帳、いわゆる幕があがるとふたりが向かい合って舞台に立っていることを言う。役者が舞台に立っていて、幕が上がるのである。
その出来事は、幕が上がる10分か15分前であった。上手側がやけに騒がしい。「カジさんは?」「カジさんが…」と大勢の声が聞こえる。下手にあったインターホーンの赤いランプが点滅している。「はい!」「下手にカジさんが行ってないか!」
舞台監督の声が不安げに聞こえた。「いえ、誰も…」「カジさんがいないんだよ、お前も探せ!」あちらこちらで「梶山さ~ん!」「カジせんせ~!」と裏方の声が聞こえた。客席では「開演10分前で御座います。どなた様もお席に御戻りください」とのアナウンスが流された。下手の全てを見たが、どこにもカジさんの姿は、ない。裏方の皆は、焦ったように叫びながら探している。私は、螺旋階段を降りてみた。奈落に通じる階段である。階段を降りていきながら開演5分前のベルの音を聞いた。その時だった。奈落の底からカジさんの鼻唄を聞いたような気がした。駆け下りた。確かに、カジさんの声だ。声は、奈落にあるトイレから聞こえてくる。「梶山先生!もう幕が開きますよ、はやく、はやく!」
私は、叫んで梶山さんの手を引いた。カジさんは、酔っぱらっていた。「オイ、オイ、キクチくん、腕を引っ張るなよ。セガレをしまわせろよ!」螺旋階段で私は、カジさんのお尻を押した。ほろ酔い加減のカジさんは、ふらふらと螺旋を登った。上がりついたとき、遅かった!と私は思った。スルスルと緞帳が上がる音が聞こえたからだ。下手にカジさんの手を引いて向かった。幕が上がり宮本武蔵扮する柴錬の怖い顔が見える。どうとでもなれ!と思い、私はカジさんの背を押した。踏鞴<たたら>を踏んで背に刀を背負った小次郎が舞台に出て行く。
「小次郎、遅かったな!」
柴錬の宮本武蔵の一声で、客席は、ドッと笑った。