田端文士村 | honya.jp

閉門即是深山 74

田端文士村

先日講演をするために田端へ行ってきた。
東京にいても、あまり田端には行く機会がなかった。
田端は、山手線で行ける。上野と池袋の間と言っていい。若い頃、私の祖父も家に住んでいた。豊島区雑司が谷、護国寺や講談社のある音羽に近い。椿山荘も歩ける距離だった。家から車で上野や浅草、神田に行くときは、いつも不忍通りを使う。この字で「しのばずどおり」と読む。

田端は、北区にある。その名のとおり東京の北の外れにある。山手線で通過することもあったし、上越や東北新幹線もこの傍を通るから、通り過ぎることはあったけれど、駅に降りたことがあったか思い出せない。
田端という名は、江戸古地図には出てこない。古地図には、御殿山や西ヶ原村などは画かれているが、田端の名は出てこなかった。この辺は、中山道から志村、そして戸田川の舟渡りを過ぎて板橋の宿に繋がる要所のはずだが、地図には、「畑」とあるばかりである。
明治11年に作成された内務省の地図には、田端村として出ていた。

講演をする「田端文士村記念館」は、山手線田端駅北口前にあった。私の住んでいる町は、東京湾沿いにあるから、車で北に向かった。道は、上野公園の不忍の池にぶつかる、ここは、皇居と同じく道がその縁をくるりと廻っている。左廻りをして不忍通りに入ると、東京大学を左に見て、池之端、根津、千駄木と続く、このあたりは、森鴎外や夏目漱石が住んでいたこともあったらしい。道路の各街灯には、「文豪の町」と表示がぶら下がっていた。
ナビは、不忍通りから右折するように私に指示を送ってきた。「300メートル先、動坂下を右折です!」ナビどうりにハンドルをきった。しばらく小さな商店街を走ると、小さなトンネルがあった。
「目的地周辺です。ナビを終了します」と女性の声が私に告げた。正面にJR田端駅北口が見えた。小さなトンネルをくぐると、その左手には「田端文士村記念館」があった。時間は、約束までには1時間もある。駅舎には、アトレという大きな看板が掲げられている。私は、講演の前に一人きりの時間を持つようにしているし、会場に飛びこむようなことはしない。早めに着いて、喫茶店を探し、コーヒーを飲み煙草を吸いながら、講演内容のお浚い<おさらい>を頭の中でする。テンションを上げるためでもある。

人前で話をするのは、誰でも恥ずかしい。有名な役者も歌手も、舞台の袖では鬼のような顔をしていると聞いたことがある。名優と言われている人も、手馴れた歌手も舞台に出る前は、嫌で、嫌でたまらないらしい。
私は、いつもなぜこの仕事を受けてしまったか、後悔する。「やってくれますか?」「はい!」とご返事は、しごく良い。よっぽどでなければ、また、日時がバッティングさえしていなければ「NO!」と言ったためしがない。それは、一度でも「NO!」と言えば仕事が来なくなってしまうのではないか、という脅えからである。しかし、必ずしも仕事が好きかといえば、そうではない。他人から見て、私は人前で話をするのが、得意か好きなんだろうと、思われているらしいが、壇上に上がる前は、嫌で、嫌で、逃げ出したくなるのだ。

田端駅北口の近くで、ドトールを見つけた。ここに入れば、コーヒーは飲めるし、煙草を吸えることを私は知っている。さっそく中に入り、アメリカンをトレーにのせて、奥の喫煙席に入った。煙草に火をつけ、コーヒーに砂糖を2杯、ミルクを2コ入れて、以前から頂いていた「田端文士村記念館」の栞を開いた。こんなことをしていると、自然にテンションが上がってくるものだ。
栞を開いて驚いた!
今いるドトールは、丘を削った所に建てられたもので、少し前までは丘陵になっていた。そして、ドトールのちょっと上に祖父・菊池寛の親友芥川龍之介が夫人と住んでいた家があったのだ。と、いうことは、ドトールを出て2~3分も歩き、左に折れれば作家や文化人が集まった料亭「自笑軒」があったはずだ。ここで、昔「新潮社創作合評会」をしていた所と聞いた。

祖父・菊池寛は、関東大震災の後、3ヶ月だけこの田端に住んだことがあった。震災で金沢の実家に帰った室生犀星さんが住んでいた家だった。住んだ時期は、まちまちだが、祖父の友人の作家や芸術家仲間の名前が、その栞に記されている。まず、芥川龍之介、直木三十五、画家の岩田専太郎、川口松太郎、林芙美子、堀辰雄、陶芸家の浜田庄司、評論家の小林秀雄、サトウ ハチロー、竹下夢二、瀧井孝作、萩原朔太郎、時代は違うけれど、岡倉天心、二葉亭四迷の名もある。最近では、村上元三氏もこの地に住んでいたとか。
正しく、偽り無しに田端は、文士村だった。
大正7年2月2日の土曜日、田端白梅園で芥川龍之介は塚本文子と結婚をし、披露宴を料亭「自笑軒」で催している。東大の同級生だった久米正雄も祖父も出席している。
菊池寛は、芥川龍之介の婚約を知って句を遺していた。
「佳人獲て 春待つ君が 書斎かな」
佳人を調べると男性の場合「文才があり嫉妬の対象の人の意味」と書かれている。この場合の佳人は、奥方になる塚本文子さんのことだから「すがたが美しい美人の意味」になるだろう。
しかし、菊池寛の句には、ふたつの意味を含ませていたのかも知れない。