流 | honya.jp

閉門即是深山 108

いや~ぁ、嫌になっちゃう!

若いころ、まだ出版社に勤めていて、現役ばりばりのころ、私は、年に150冊以上の単行本を読めた。
だいたい2日か2日半に1冊読んでいた計算になる。といっても速いわけではない。編集者としては遅い方で、今でもトラウマである。もちろん他の業務をしながらであるが、同じ条件で日に1冊くらい読める奴が多い業界の中で、2日に1冊しか読めないのだから情けなく思っていた。
ところがだ、齢70になった今、1冊読むのに5日がかりになってきた。眼が悪くなり、また根気も薄れ、何をやっても時間がかかるから、1日の中で本を読む時間が少なくなる。土曜日と日曜日、また祝祭日は映画を観たり遊び呆けるから週に1冊読み終えるのがやっとになってきたのだ。
まぁ、利点といえば本の値段も高いから、小遣いのことを考えれば良いことかも知れない。以前は、担当作家が本を出すたびに他社の本を贈ってくださったし、自社の本は、タダで貰えたから本の中に埋もれていた。貰う本より読める数が少ないから、読めずにいる本は誰かにあげたり、プライベートのゴルフの賞品に出していた。今は、書店で選ぶ楽しみを覚えた。が、小遣に限度額があるから、欲しい、欲しいと買えば、好きな煙草も買えなくなるし、コーヒーも飲めない。月に4、5冊がちょうど良いかも知れない。

8月21日にあった芥川賞、直木賞の受賞式の時に、私は、芥川賞の授賞者 又吉直樹氏の『火花』(文藝春秋刊)と純文系文学雑誌『文学界』の3月号に掲載された羽田圭介氏の『スクラップ・アンド・ビルド』は、読んで行った。直木賞の東山彰良氏の『流』(講談社刊)は、買っていたが読む時間がなかった。
前回もこのブログに書いたが、10月に大田原市と日本ペンクラブが共催している「大田原市文学サロン」が迫っていた。私も直木三十五の甥ごさんの植村鞆音さんや吉川英治のご子息の吉川英明さんと座談会として舞台に立つので、ある程度下調べをしておかなければ落ち着かない。9月に入り、鞆音さんの著書『直木三十五伝』(文藝春秋)と英明さんの著書『父 吉川英治』(講談社文庫)を読みだした。そして、1967年の宇野浩二氏の著書、築摩書房で刊行された『芥川龍之介』も読んだ。しかし、なかなか頭に入ってこない。三冊とも同じような時代だし、作家伝記であるから読んでいて頭がゴチャゴチャになってしまった。これではどうしようもないので、もう一度読み直し、資料として欠かせない箇所に付箋を貼り、そのコピーをとった。コピーは、私の仕事用のバッグに投げ込まれたままである。それでも安心し、舞台の上に立てた。
この作業に結局ひと月を要した。

直木賞を授賞した東山氏の『流』を手にとったのは、10月に入ってからだった。今回の芥川龍之介賞は、上記したように二作品。直木三十五賞は、一作であった。選評文やニュースでどなたか選者がコメントしていたように、一作品の時は、ダントツである。二作受賞の時は、選者が悩んだ時が多い。この直木賞受賞作品『流』は、ダントツもダントツ、1回目の選考も二度目の選考も、選者全員が推した作品である。ウキウキしながら扉頁を開いた。原稿にすれば320枚を超える厚さのある本である。私は、栞を挟むことも忘れて読みふけった。それは、ミステリーでもあり、青春恋愛小説でもあり、中国の時代小説にもなり、中国大陸の歴史小説でもあった。
これだけの材料が、巧みに構成された一大スペクタクル小説でもあった。
「貴方がこの数年で、これと思った小説を一冊選ぶとしたら」と訊かれたたら私は淀みなく「講談社で東山彰良氏が出版された『流』です」と答えると思う。面白いのなんの!

まだ、読んでいない人や、今読んでいる最中の人に悪いから、あらすじはここに書けないが、主人公は、台湾人の若者である。子供のころから祖父に可愛がられて育った彼は、祖父が殺された第一発見者となる。なぜ、好きだった祖父があんな残虐な殺され方をされたのか?彼の心の中にトラウマのごとく付きまとう。祖父は、中国が共産党と国民党に分かれて戦い合ったあの時代の生き残りであった。
我々は、現在銀座に行っても、新宿でも中国からの観光客によく出くわす。近くて、遠い国の中国の歴史をよく知らずに漏らす愚痴を聞く。道端で、スーツケースを開けて、買ったものを皆で交換してるのよ、とか女性用のトイレで大声でうるさいとか、ドアも開けたままでしゃがんでいるとか、そんな類である。眉をひそめる日本人も多い。しかし、この『流』を読むと寛容になれる。むしろ、日本の小ささ、日本人の心の小ささを思い知るかも知れない。この『流』には、大陸の大きさまで書かれている。私は、出版社に勤務するころ、昭和43年に直木賞を受賞した陳舜臣さんの作品『青玉獅子香炉』を思い出した。青玉とは、翡翠のことかも知れない。獅子は、ライオンではなく獅子舞の獅子だろう。神社に対で飾られている「あうん」の獅子だ。大陸で共産党軍が勢いを増し、国民党軍は海を渡り台湾に逃れる。そして、今の台湾が創られたわけだが、両国に故宮博物院がある。国民軍が逃げ渡るときに大陸にあった宝物を持って渡ったのである。翡翠で出来た獅子を模<かたど>った香炉は、その財宝のひとつであった。この小説も中国の分裂を、中国、台湾の歴史を書いたものだったが『流』は、今日風で面白いし、読みやすい!秋の夜長、ぜひこの一冊で楽しんでもらいたい!