泥鰌さんの汗臭さ | honya.jp

閉門即是深山 6

泥鰌さんの汗臭さ

今から、かれこれ30年以上前であろうか、私は文藝春秋の小説誌『オール讀物』の編集者に異動を命じられた。35歳のときだった。出版社ならば結構入社早々から編集者になることが多い。文藝春秋もそうだったから、私は、とても遅咲きの編集者だった。右も左もわからない私が、編集長、デスク、の次に並び、下に4人の部員がいる。心細いのは、きっと私ではなくて周りの編集者だったに違いない。
とにかく、なにも判らない私は、突然50名近い作家や漫画家の担当者になった。
池波正太郎氏や井上ひさし氏、松本清張氏や渡辺淳一氏が編集長から預ったリストに並んでいた。その中に、漫画家の滝田ゆうさんもいた。『オール讀物』で滝田さんは『滝田ゆう 名作劇場』(タイトルに関して、私の記憶は曖昧だが)を長い間連載されていて、前担当者から私が引き継いだのだ。

滝田ゆうさんの漫画は藝術的ユニークで、多くのファンを持っていた。誰がつけたか知らないけど、滝田ゆうさんの渾名は、「どじょう」さんだった。もしかして、漫画の終わりにワンポイントで泥鰌<どじょう>の画を入れていたからかも知れないし、その逆で、「どじょう」さんの渾名をもらったものだから、泥鰌の画を入れたのかも知れない。

滝田さんの印象は、そう、上野公園に建つ西郷隆盛像を想い浮かべるといいと思う。もちろん、当時、ある御墓のCMに出演されていたから、滝田さんに別の印象をお持ちの読者もいると思うが……。

話はまたまた飛ぶが、西郷隆盛は、私の遠い遠い、親戚なのだ。親戚といっても150年以上も前のひとだから「おじさん」みたいには、言えない。
私の菊池家のルーツを辿ると九州菊池市にたどり着く。菊池の中から5つの名前が出ている。その中に西郷という名もあった。
話を滝田さんに戻すと、滝田ゆうさんは、とても西郷どんに似ていると、私は思っている。私は、『滝田ゆう 名作劇場』の担当者となった。電車の踏切の「カン カン カン」の音、高下駄の「カランコロン」の音、昭和の良き時代が滝田さんの画で綴られていた。街を走る都電は、リアルな私の少年時代のそれで、滝田さんの画く都電を見ながら、うっすら、ジワッと、ノスタルジックを味わった。

滝田ゆう氏は、1974年(昭和49年)『怨歌橋百景』他で第20回文藝春秋漫画賞を受賞、1987年(昭和62年)『裏町セレナーデ』で第16回日本漫画家協会大賞を受賞、そして、逝ってしまわれた年の1990年には、勲四等瑞宝賞を国から頂いた素晴らしい藝術家だった。
しかし、とても遅筆のひとで、作家の井上ひさし氏にも劣らない遅筆ぶりは、編集者の間でも有名だった。

私の記録を読むと、その日は、1982年10月9日と書いてある。当時、毎月22日に出版する文藝誌の最終校了日は、毎月9日と決まっていた。この日までに、編集者の手から印刷所に仕事が移らないと発売日に間に合わない最終段階の日だった。私の所属していた小説誌『オール讀物』もそれだった。
前日、私は、国立にある滝田さんの家に夜までいた。
「菊池くん、絶対に明日の朝7時までには、書き上げておくから今日は、帰ってくれよ」滝田さんの顔は、泣きそうな顔だった。朝7時というのは、原稿を頂いてタクシーを飛ばし、板橋にある印刷所に入れるぎりぎりの時間だった。そのころ、印刷所の工員さんたちは、8時半から仕事を始めていたのでそれに間に合う時間だった。タクシーの中で、私は、よく赤鉛筆で校正したり、寸法を合わせたりしたものだ。
「滝田先生、もう待てませんよ! どん詰まりですからね、俵に足がかかってますから、そのつもりでお願いしますね!」私は、国立を離れた。
翌朝7時に、原稿は書き上げられていた。滝田さんは、床につかれているらしい。奥さまへのご挨拶もそこそこに私はタクシーに飛び乗り、赤鉛筆で原稿と戦った。8時半、印刷所に跳び込めた。
その日の夕方だった。編集部にいた私に、滝田さんの奥さまから電話があった。少し焦った声で
「ねぇ、菊池さん、滝田は、あれから一度も起きないのよ!鼾<いびき>は、聞こえるんだけども、ちょっと変なのよ。忙しいでしょうけど、覗いてくれないかしら?」
ぎょっとした。急いで私は国立に向かった。いまから考えるとどうして救急車を呼ばなかったのだろうか。二階の寝室から急な階段を滝田さんを背負って、私は降りた。路地が狭くて、家の前までタクシーは入れない。大きい身体の滝田さんを背負った私の腰が軋んだ。奥さまは、心配顔で付き添ってくれている。浴衣の寝間着から、ツンと滝田さんの汗の臭いがした。菊池くん、いくら仕事とはいえ、作家を殺すつもりか? そんな臭いだった。タクシーですぐ近くの大きな病院に滝田さんを運び、そして、即入院となった。1982年、滝田ゆうさんは、私のお願いをした原稿を書き上げるために脳血栓になって、左半身麻痺になってしまった。その日以来、各小説誌の連載から、漫画誌から滝田ゆうの漫画は、見られなくなってしまった。私は、ひとりの藝術家を壊してしまった。