天使は片翼で青空にむかった! | honya.jp

閉門即是深山 8

天使は片翼で青空にむかった!

マッサージ室から出て上着を着て外に出ると、私の携帯電話の光が点滅していた。歳をとると忘れ物が多くなる。私にとって、仕事に必要な携帯を忘れることも多くなった。だから、私は携帯を首から下げている。普段は、ほとんどバイブレータ機能にしているから、携帯が光ると電話かメールが入ったか入っていることがわかる。

はい、といって私は自分の姓名を相手に告げた。
「あっ、ごめん、いま良いかな?」
携帯には、小学館で活躍していた親友の編集者の名前が表示されている。彼もまた私のようにOBの身だった。
「いまさぁ、徳間のIさんと集英社のヨコちゃんと飲んでいるんだけどさ、あんたにヨコちゃんが相談があるんだって、その前にIさんが話しがあるからって、いまかわるね」

Iさんは、徳間書店のOBでヨコちゃんも集英社のOBである。
Iさんは、徳間書店を勇退した後、文源庫という名の出版社を創り、当時は、めずらしかったオンデマンド方式によって素晴らしい文藝誌を刊行していた。しかし、何年か前にスポンサーが降りてしまい、方向転換を余儀なくされている。Iさんは、私の先輩にあたる齢で人望があり彼のオフィス文源庫には、作家や旧編集者がよく集う。電話をかけてくれた親友Aさんも、ヨコちゃんも、この文源庫を起点として、老いても仕事をしていると噂で聞いていた。

「あのさぁ、」私の携帯の受話器からIさんの声が聞こえた。
「ときどき文源庫に顔を出しなさいよ!」
私は、2、3度仕事でお邪魔したことがある。夜の集いも2、3回。でも、私は下戸で、ほとんどの作家や編集者たちは、蠎だから。蠎の字は、難しいですね。蠎は「おろち」「うわばみ」と読みます。ほとんどの作家や編集者たちは、ウワバミだから、私は、つい遠のいてしまっていた。
「あのさぁ!」また受話器から聞こえる。声が変わった。ヨコちゃんの声だ。「なつきさんに、頼みたいことがあるんだよ!その前に幾つかお礼も言いたいんだ」
どの社であっても先輩編集者の言うことは、聞かねばならない。
「中野実さんが大おじさんでさ、作家の加野厚志さんの息子さん、そう阿野冠くんの世話をなつきさんがしてるんだろう?ありがたいよ」

中野実さんが大おじさんだったとは、私は初耳だった。中野実さんは、私の祖父菊池寛とは仲が良かったと聞いたことがある。第一回目と第三回目の直木賞候補にまでなった実力派の作家だ。お父様の加野厚志さんも時代小説のベテランである。
まったく奇偶な話しだった。お父様の話は聞いていたが、仰天してしまった。最初、知り合いの編集者から読ませてもらった阿野冠くんの実に軽妙な文章に、私は惚れたのだ。彼の本も出版したこともあるし、このホームページにもある元京大教授西村さんとの対談でも20代の代表として出演してもらうことは、決まっている。まぁ、世話をしてるってわけでもないけどよく仕事を共にしてもらう。電子雑誌『アレ!』でも彼の連載をしていた。

「それに、生島治郎さんの奥さんの葬式も君が出してくれたそうじゃないか」
直木賞作家生島治郎さんには、私はとても可愛がっていただいた。生島さんは、2度結婚している。1度目は、女流作家だった。たぶん、ヨコちゃんは、2度目の夫人の葬儀をいっているんだろう。そう、生島治郎さんの作品『片翼の天使』の主人公だった京子夫人のことだ。

生島さんが小説化したように、彼女は、風俗嬢だった。噂では、漫画家の黒鉄ヒロシさんが彼女の働く店に連れて行ったらしい。彼女は、韓国の人だった。
ふたりの結婚は、祝福されなかった。編集者も離れ、作家仲間の何人かも隙間を空けた。作家で心からふたりの関係を認めたのは、大沢在昌さんと佐野洋夫妻だけだったかも知れない。でも、ふたりは仲がとても良かった。70代の夫と30代(?)の妻は、いつもベタベタしていた。世間から嫌われてしまった妻を生島さんは、可愛がった。私は、共に旅をし、ゴルフをした。本音をいえば、私は、逃げることが出来なくなってしまっていたのだろう。
生島さんが亡くなられ、京子夫人とも疎遠になった。いや、夫人は変わったひとだったから、少しづつ疎遠を企んでいたのだ。しかし、生島さんの本を復刻することが決まり、著作権者の夫人と向き合わねばならなくなった。
生島さんと住んでいた家の近くに、彼女はアパートを借りていた。そして、そのアパートの近くの喫茶店で会った。
「キクチさ~ぁん、あんた大好きよ!タロちゃん(生島先生の本名)もあんた大好きよ!」喫茶店で抱きつく。「アリガト、タロちゃん喜ぶよ! 印税いらないから、カップらーめん沢山買って欲しいヨ!」

それから、2ヶ月後、講談社の某編集者から電話がかかってきた。
「生島夫人が今日亡くなられたそうです。今の社には、先生の担当がいません。どうも家主の方が部屋を探して、講談社との契約書を見付けて電話をくれたようです」
寂しい葬式だった。昔一緒に旅をした韓国で出会った彼女の弟さんに連絡をして韓国から来てもらい、式のない葬式をした。
「生島先生、僕は、こんなことしかできなかったけど許して下さいね。京子さんを今、先生のもとに送りますから、これで許してくださいね」
葬儀場の青い空に向かって、私は呟いた。後で聞いた話だが、夫人は、カラオケ仲間と好きなカラオケをしながら、マイクを握ったまま跪いたまま逝ったそうである。病名は、訊かなかった。