夜空の星になって! | honya.jp

閉門即是深山 111

夜空の星になって!

新聞の死亡欄を漠然と目を通していたときだった。ふと見慣れた活字が眼に飛び込んできた。
それは、挿絵画家中一弥氏の死を報じたものだった。100歳の高齢であった。
中一弥氏は、作家逢坂剛氏のお父上である。新聞には、お通夜も告別式ももうご家族で済まされ、お別れの会もしないと書かれていた。

私は、35年近く前に中さんのご子息逢坂さんの担当編集者だったことがある。逢坂さんとは、仕事でよく旅をした。氏が大好きなスペインには、7回くらい行ったと思う。スペインの太陽が落ちる海岸線の近くにカディスという港町がある。その町にある直木賞授賞作品の小説のクライマックスに使われた教会にもふたりで行った。また、イギリスにも3、4回ご一緒した覚えがある。日本も方々旅をした。逢坂さんは、昭和61年に『カディスの赤い星』で第96回の直木賞を授賞されている。その物語は、ひとつのフラメンコギターから話が始まる。そのギターには、特徴があった。ギターには、赤い星のような大きなルビーが象嵌されていたのだ。
私が、逢坂さんと仕事をしていたころは、まだその作品は発表されていなかった。ある日、彼とおしゃべりをしていたとき「菊池君さぁ、押し入れを整理していたら昔書いた作品が出てきてね」と逢坂さんは、話を切り出してきた。若いときの作品だから書き直そうと思ってるんだと、言葉を付け足した。後で私は、臍をかむことになるのだが、その1,2日後、私のところで出版しませんか?と彼に訊いたところ、もう別の出版社で出すことが決まってしまったらしい。それが、直木賞を授賞したわけだ。生き馬の眼もえぐり取るような出版の世界にいて、1、2日は長い時間である。思い知って、未だに悔しい思いがする。
これも35年近く前だろう。私は、逢坂剛氏の『百舌の叫ぶ夜』を読んで絶賛した。これは、その後シリーズ作品となった。全6巻だったと思う。読んだときの興奮は、今でも思い出すほどだ。逢坂さんに手紙を書いた。これは、あなたの代表作のひとつになるだろうと。
この『百舌』のシリーズが、今頃テレビドラマ化され、また『MOZU』として映画化された。いままで脚本家や監督は何を読んでいたかと思う。どこに眼を付けてるんじゃい!てめいら、本を読んでるんか?少しは、勉強せい!といいたかった。やっとMOZUが日の眼を見た。書店では、テレビドラマ化、映画化が決まってMOZUシリーズの文庫が平台に沢山飾られている。何を読もうかなと思って迷っていられる方がいたら、ぜひともお薦めする作品である。損はさせない一冊だと思う。

そう、逢坂さんのお父さま中一弥さんの話だった。中一弥さんの担当も私がしていた。それは、逢坂さんとはなにも関係がない。
文藝春秋の小説誌に『オール讀物』という雑誌がある。歴史は、古い。大正12年に総合雑誌『文藝春秋』は、祖父・菊池寛の手で発刊したが、昭和5年7月文藝春秋の臨時増刊号として『オール讀物号』が生まれた。創刊して51年後、自分の孫がその雑誌の編集者となるなんて祖父は、思ってもいなかっただろうと思う。
私がその編集部に配属されたのが35歳のときであった。そのころの『オール讀物』の代表作品といえばは、池波正太郎氏の『鬼平犯科帳』だった。しかし、何かの問題があって池波さんは、2、3年連載を中断していた。当時の編集者のミスが発端だったように噂で聞いたことがある。私は、池波正太郎氏と初めて逢ったは、私が入社して2年目くらいで、この編集部で氏の担当者になるまで11年間付き合ってきたわけであった。
「お前が来ちゃったか、じゃぁ鬼平を再開しなきゃならんな」池波家に担当の挨拶に行ったとき、応接間に入る前にいった池波さんのいわれた言葉をよく覚えている。すぐに『鬼平犯科帳』は、再開された。池波作品の『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人 藤枝梅安』の池波正太郎代表作3シリーズの挿絵は、全て中一弥氏の手によるものだった。池波さんは、中さんを信頼し、絶対に中さん以外の人に自分の作品の挿絵を任せなかった。
「中くんに死なれちゃ困る」
池波さんの口癖だった。

中一弥さんの訃報を新聞で知る2日前に、株式会社オフィス池波から封書が届いた。

「謹啓 錦秋の候 皆様におかれましては ますますご清祥のことと
お慶び申し上げます
さて 今年は池波正太郎の没後二十五年にあたりますので生前お世
話になった皆様方 遺作をとおして現在お世話になっている皆様方
をお招きし、ささやかながら故人を偲ぶ忘年会を催すこととなりま
した
新年の更なる飛躍を祈念いたしますとともに皆様との親睦を深めた
く存じます
ご多用のところ誠に恐縮ではございますが 何卒ご来臨賜りますよ
うご案内申し上げます                 敬具 」

すぐに私は、出席の返事を書いた。