一期一会 | honya.jp

閉門即是深山 126

一期一会

江戸川橋にあるドラムの練習スタジオの帰り道だった。
私は、70歳にしてふたつのバンドのドラムを担当している。
これまで、幾度もそれをネタにこのブログを書いてきた。
一昨年から一年半、私はドラムの教室に通った。
「若いとき、バンドを組んでいて、それでアルバイトをしていましたが、当時は、バイオリンやピアノやギターの教室はあったのですが、ドラム教室などはなくてねぇ、基礎を学んでいないんです。ドラムの譜面も読めません。それが、いつまでも私のトラウマでしてねぇ。この歳になって、最初から、基礎からやり直したくなりましてね。ゴルフもそうですが、最初の時にしっかり基礎から学んだひとと、そうでないひとは、後になって、ぜんぜん違うんです。先生、ぜひ、基礎からお教え願えませんでしょうか?」
先生は、有名な方だった。そして、優しかった。
「それじゃ、基礎から始めましょうね」と優しく言ってくれた。

「このスタジオが来月終わるんです。また、新しく場所を探して始めると聞いています。でも、良かった。ちょうど一年半、基礎の部分は終了しましたから」
昨年の夏、突然先生に言われた。その後、私はホトホト困ってしまった。ドラムは、うるさい。家では、練習が出来ない。2~3ヶ月練習場所を探しまわったが、バンドの練習スタジオはあっても値段が高い。ふたつのバンドの練習代は、メンバーの割り勘で済むが、ひとりで払うとなると辛い。

しかし、ある時、私の早逝した長男の友達の弟が自分の使っているスタジオで紹介者があれば手頃な値段だから行ってみないか、と誘ってくれた。私は、週に2回、各2時間そのスタジオを借りて、先生から教えられた基礎練習だけを繰り返している。その帰り道だった。2時間、続けてのドラムの練習は、70歳になった私にはかなりキツイ。帰り道は、ふらふらになるから、決まって駅前のドトールコーヒーに立ち寄ることにしている。

まず、乾いた喉を潤す珈琲が飲める。奥には、少々狭いが喫煙室もある。その日は、2人席で珈琲を飲みながら、煙草を吸い、浅田次郎氏の近刊書『獅子吼』を読んでいた。この字で「ししく」と読む。因みに文藝春秋の新刊書である。読みふけっていた私の前に置かれた椅子には、私の大きな布のバッグとコート、マフラーが置いてあった。その椅子の背に私より7、8歳上の老人が手で身体を支えていた。片手には、杖を持っている。

私は、バッグやコートなどを自分の椅子の脇に置き、席を勧めた。老人は、素直だった。つまらぬ遠慮もせず、私とテーブルを挟んで座ってくれた。テーブルの上には、私の本、眼鏡ケース、吸い殻が一杯の灰皿、プラステチックのトレーに載せた珈琲カップやミルクや砂糖のカスが、雑然としていた。慌てて、私は、それらを引き寄せ、半分を彼のために空けた。彼は、それが礼なのかにこりと笑い、コートのポケットから古い文庫本を出し、私が空けたスペースに置いた。その文庫は、私が昔作った池波正太郎氏の『鬼平犯科帳』だった。不思議なことにセルフのはずのその珈琲店のウエイトレスが、彼の前まで珈琲を運んできた。きっとその店の常連客かもしれないと最初は思ったが、ドトールである。常連であろうが、セルフである。きっと、この老人は、以前脳卒中でも患って自分で珈琲を運べないのだろうと、そのとき思った。ふたりは、向き合って珈琲を啜ったがなんとも可笑しい。その老人は、身なりがとても美しく、老人特有の汚さがない。そんな安心もあって、声をかけてみた。いや、他人同士、それも老人同士で向き合って座っているのが居たたまれなくなったのだ。

「失礼します。私は、3年前に父を亡くしまして。あまり仲の良い関係ではなかったので、父に訊いていなかったのですがね、私は、戦後生まれで戦争のことを知らないんです。いや、父に訊いておけばよかったと、それだけは後悔してるんです」私は、取りとめもなく、また、こんな席でたぶん普通は訊かないだろう話をしてしまった。細巻きのお洒落な煙草をポケットから取り出したその老人は、百円ライターでそれに火をつけながら、むかえに座る私をじっと見ていた。それが、5分にも10分にも私には感じられた。私は、しまったと思った。不作法この上もない話題を見ず知らずの老人にかけてしまったのだ。ゆっくりその老人は、しゃべりだした。その歯は、総入れ歯なのだろうか、妙に白く、しかし、そのために喋りにくそうに、ゆっくりとした話し方だった。

「覚えてないんだよね、わたしは、釜石の近くにいましてね!子供だった。生まれは、水戸で、電気の日立に勤めましたよ、試験、試験でね。そう子供のときだった。釜石の近くだった。夜中にね、秋田の方から連合軍のB29がやってきた。空一杯のB29でした。母が林に逃げろと言いました。子供で覚えてないのですけど、釜石にあった新日鉄の工場を狙ったようです。釜石の方が火の海でね、その林に逃げたひとたちも大勢B29からの銃撃をうけて死んでいましたよ。覚えてないんですよ。畑で働いている爺さんや婆さんも撃たれて死にました。日立製作所で、私は発電のモーターをやりました。やれ、あっちに行け、それ、あっちに行けと出張ばかりでね」
病気のせいなのかも知れない。話が、子供の頃と社会人になってからのことと混じる。でも、リアルである。喋るのに時間がかかり、あっという間に、1時間以上が過ぎていた。私がコートをもって立ち上がると、彼は、声に出さず、口だけで「また、逢いましょう」と言って微笑んでくれた。