さらば友よ | honya.jp

閉門即是深山 18

さらば友よ

「友よ、さらば」だったか「さらば友よ」だったか、五木寛之氏の作品になかったかなぁ!そんな気持ちでパソコン検索をしてみた。
私の勘違いで、五木寛之さんの作品集には見当たらない。そのかわり1968年のフランス映画に「さらば友よ」は、あった。観た覚えがある。主役のアラン・ドロンとチャールス・ブロンソンがすれちがいざまに、ドロンがタバコを口にくわえ、ブロンソンがそのタバコに火をつける名シーンを思い出した。いや、タバコをくわえたのは、ブロンソンだったかなぁ。あの場面は、共に語らぬ友との別れを示した男のカッコ良さだった。

五木さんの著作本の最初のころだったと思う。五木さんは、1967年に『さらばモスクワ愚連隊』、『蒼ざめた馬を見よ』、『青春の門』とたて続けに出版され、そしてその後、『青春の門』、『GIブルース』、『海を見ていたジョニー』など書かれ、一躍スターダムに伸し上った。
1967年といえば、私が、20歳を越したばかりだった。私は、そのころ子供のころからの友人たちとロックのバンドを組んでいた。その中に一生の親友が何人かいたのだ。そのひとりA君は、大の五木ファンだった。
五木寛之氏の作品と野坂昭如氏の作品は、そのころの若者の神の本だった。A君とは、互いに読み比べては論を戦わし合った。
私は、そのころ五木さんの作品が綺麗事に思えてならなかった。野坂作品は、なにかどろどろしたところがあって、これを書くのが小説だろうと思い、それをA君にぶつける。彼も「ちゃんと読めよ!」とかなんとか、私に喧嘩を売ってくる。それこそが、青春だった。

五木寛之さんに初めてお会いしたのは、40年近く前だろうか。ご一緒に北海道に行った講演の旅だった。最初に札幌の飛行場に着いて、札幌市内でジーパン屋を見つけ、五木さんにジーパンとジージャンを買って頂いたのを覚えている。私は、2枚Tシャツを買った。
機内で五木さんが「菊池くんさぁ、ジーパンって履いたことある?」と質問された。そして、五木さんは「僕、ジーパンを履いたことないんだよ、札幌に着いたら一緒に買いにいかないか?」と私にむかっていわれた。そうだろう、私の年頃は、もう日本もGパンを履く人は増えていた。帝国ホテルなど高級なホテルなどは、Gパンの出入りは禁止されていた時代だった。私より14歳年上の、そして、好奇心旺盛な五木さんが履いてみたいのは、判る。そして、ちょっぴり恥ずかしいのも。1週間後、東京に帰る日「ねぇ、あのお揃いGパン、Gジャン着て帰らないか?」と五木さんに言われたとき「えっ」私は声を失った。「それこそバンドマンになっちゃう!」でも、お揃いで帰った。

今から7年前、私は、現役を退き、やっと少し暇になりかけたので、A君とこれからゆっくりゴルフでもして生きていこうかと思い出した。そして6月に、彼の携帯に電話をかけた。
「僕さぁ、5月に検査を受けたんだよ、食道がんだって、余命3ヶ月で今病院のベッドの上なんだ」私は直ぐに筑波にある病院にかけつけた。友人には、まだ誰にも伝えていないらしい。ベッドのテーブルの上に1台のパソコンがあり、待ち受けに可愛い赤子の写真があった。
「可愛いだろ、僕の初孫なんだよ」「これから時間が沢山出来るから、お前とゴルフがしたくて」「ごめんな、もう出来ないよ、でもいいんだ!」2時間も話しただろうか?A君は、達観していた。死を受け入れていた。そして、4カ月後に逝った。あまり恰好はよくなかったけど遺影の前で私は「さらば友よ」を想い浮かべた。

 

さて、五木寛之さんが昨年12月に幻冬舎から出された本『新老人の思想』(幻冬舎新書)のことを書こうと思っていたのだが、五木さんの話から思わぬ方、A君の想い出話になってしまった。もちろん著作権があるから、本の中みは、書けない。書き悩んでいたとき、私の携帯のバイブが震えた。メールが入った印しだった。
「日本で最も長い歴史をもつ文学賞で今回、150回目を迎えた芥川賞と直木賞の選考会が~」NHK配信のメールの書き出しである。芥川賞に小山田浩子さんの『穴』が、直木賞に朝井まかてさんの『恋歌』と姫野カオルコさんの『昭和の犬』2作品が受賞したと続く。ものものしい書き出しだが、1935年(昭和10年)に祖父菊池寛は、両賞を創設した。この賞は、年に2度「上半期」と「下半期」に分けて催される。年に2回あるわけだ。単純計算でいえば75年続いたことになる。しかし、戦争に入り1944年(昭和19年 下半期)まで行ったが、1949年(昭和24年 上半期)に再会されるまで休まざるを得なかったから、単純に計算はできない。
にしても、今年は、両賞にとって区切りの良い記念の年である。もし、「受賞者なし」となったらどうなるのだろう。私も少し心配していた。主催社の日本文学振興会や文藝春秋も勝手に受賞者を出すことはできない。10名近い選考委員に委ねられているからだ。直木賞の選考委員のひとりに五木寛之氏も座しておられる。メールが入ったおかげで、ますます話しがややこしくなった。五木さんの幻冬舎刊『新老人の思想』についての続きは、次週のブログで書くとしよう。
因みに、芥川賞や直木賞は略称で、本来は「芥川龍之介賞」と「直木三十五賞」である。