ポテトサラダ通信 76
「いつまでも飲んでいたい」病
校條剛
古い本なのですが、先日、ローレンス・ブロックの『聖なる酒場の挽歌』(1986年刊行)を読みました。この作家のマット・スカダーを語り手としたシリーズを初めて読んだのは『八百万の死にざま』で何十年もまえのことになると記憶しますが、今になってこのシリーズの未読作を少しずつ味わっています。朝でも昼でも酒を飲むことで精神に安定をもたらそうとしていた時代をマットが回想する『聖なる酒場の挽歌』では酒場が主人公と言っていいほどです。
『聖なる酒場の挽歌』のあるエピソードで、すっかり忘れてしまっていた感覚が蘇ってきました。
語り手(主人公)のマット・スカダーが行きつけの酒場「アームストロングの店」で悪酔いしている女性を家まで送り届け、そのまま帰宅すればいいのに元の酒場に戻って来てしまいます。「アームストロングの店」のバーテン、ビリーは深夜を過ぎていたので、店仕舞いをして、ドアを閉めていました。しかし、扉を開けて入ろうとしている男がマットであることが分かると店に招き入れ、彼を相方に自らも飲みだします。
二人は次のような会話を交わします。
「困ったことに、私は家に帰れない。疲れて半分眠っているような状態なのに、またこの酒場に戻ってきてしまった。頭の悪い鳩みたいに」
「バカ言うなよ。あんたは、男さ、人間さ。聖なる酒場が閉まるときに、ひとりぼっちになりたくないと思う、心貧しきくそったれの一人さ」(注;田口俊樹訳ですが、少し加工しています。以下も同様)
そして、二人は酒場だけでは物足りず、ビリーの家まで行き、さらに飲み続けます。すでに朝の四時。ビリーは一枚のレコードをかけます。デイヴ・ヴァン・ロンクという歌手がアカペラで歌っている「聖なる酒場」讃歌です。この歌のタイトルは分かりませんが、YouTubeで歌手名を検索すれば聴くことが出来ます。
だからもう一夜ぼくらは過ごした
詩と散文の夜を
みんな孤独になるのがわかっているから
聖なる酒場が閉まるときには
(田口俊樹訳)
酒場を聖なる場所と思ったことは、私には一度もなかったのですが、「困ったことに、私は家に帰れない」というマットの心情に胸を突かれるものがありました。マットと自分はその気持ちでは同じ人種であったと思うからです。
「なぜ、家に帰ろうとしたがらず、何軒もの酒場をハシゴするのか。一軒が閉まると、次の酒場に行こうとするのか」
「なぜ、酒場巡りをしたあとに、やっと帰宅したのにまだ飲もうとするのか」
答えは分かっています。酒を飲み、アルコールの効力が脳髄に達し、酩酊感を感じたとき、その多幸感を持続させ、さらに高揚させるためなのです。たとえ、途中で気分が悪くなり、トイレで吐いたりしていても、ずっと酩酊していたいという欲求は収まらないのです。
マット・スカダーがコーヒーにバーボンを垂らしてまで酒を飲み、バーテンダーの家に付いて行ってまで飲みたいのはなぜか、理解できない人もいるはずですし、酒とは無縁の方々とか、「なぜ、早く帰ってこないのよ!」と怒っている細君には「どうして?」という疑問が消えないことでしょう。
マットは、一作まえの『八百万の死にざま』では、アルコールを一切断ってしまって、教会の断酒会に出ながら誘惑と闘っていて、どれほど飲みたい状況下でも酒のグラスには手を出しません。強烈に「飲みたい」という気持ちとそれを押しのけようとするときの葛藤をこの『八百万…』くらいリアルに描いた小説は寡聞にして知りません。
毎日夕方になるとアルコールを欲するのが、喉なのか舌なのか、あるいは胃なのか、いや臓器や筋肉が求めているのではなくて、脳とかその脳内に潜んでいる精神が求めているのかは分かりません。仕事や人間関係とか、その他のストレスが原因なんだとかは言いたくありません。これと決めつけられない理由があるはずなのですが、それぞれ個人ごとに異なる動機が潜んでいるとも想像が出来ます。心が乾き、暗い空洞が開いていて、それを埋める手立てが見つからないので、一時的にもその存在を忘れられる酒に頼るのでしょうか。そうと思う一方、単純な快楽主義者ゆえなのかもしれませんね。
まだ飲みたい、さらに深く酔いたいという欲求に対して、私の受けた最大の罰は43歳のときの新宿一丁目での暴行事件です。寒い時期の出来事でした。この日の夕方、私は小学校時代の旧友と30年ぶりで会うことになって、中野の居酒屋でビールと日本酒を飲みました。そして、なぜか一旦会社に戻ります。仕事が残っていたとは思えませんが、中野から直に帰宅したくはなかったようです。おそらく、行きつけの新宿二丁目のバーで仕上げをしたかったのでしょう。会社のまえでタクシーに乗り、行き先を告げたのですが、着くまでの短い距離の間に、一瞬眠りこけてしまいました。はっと気が付くと二丁目の通りをわずかに過ぎていて、一丁目に達していました。目的の店は歩いて戻ってもすぐそこの近間でした。
タクシーを降りた途端、数人の男女のグループに囲まれて、腕を掴まれ、身動きが出来なくなりました。タクシーは逃げるように立ち去ってしまっています。すぐ近くのビルに連れ込まれ、階段を三階あたりまで登らされて、踊り場で暴行を受けました。「このホモ野郎」などと罵りながらパンチを加えてくる奴もいます。新宿一丁目はいわゆる「おねえ」のいるバーが多い地域で、若い男を買いに来るおっさんたちの聖地と言われていました。私はまったくのノンケ(異性愛者)でしたが、一丁目でタクシーを降りたオッサンの目的はそれだと決めつけているようです。
結局、財布と財布に入っていた現金10万円と免許証などを盗られ、左目に打撲傷を負った私はほうほうの体で行きつけのバーに逃げ込みました。管轄の四谷署の警察官が駆け付け、現場となったマンションに同行したのですが、なんとマンションの場所が分からなくなっていました。後日、通りを一本間違えていたことが判明するのですが、まあ、それほど酔っていたということなんでしょう。
翌日は実は神戸に出張する予定でした。財布のなかには行きの新幹線の切符が入っていました。神戸では筒井康隆氏と中島らも氏の対談がお膳立てされていて、私も編集長として隣席する予定だったのです。
この暴行事件はあらゆる他人はもとより、妻からも同情をされませんでした。酒飲みが、ことにアル中に近い連中がどういう評価を世間から受けているのかしみじみと知らされたものでありました。
それでも、酒から遠ざかることはなかったのです。すくなくとも、糖尿病を発症する60歳まではときに飲みすぎるほどの夜を幾度も重ねていました。
現在の私はほぼ酒を飲むことがなくなっています。一日まったく飲まないか、夕食まえにおちょこ一杯の日本酒かワインを飲むことがあります。ノンアルコールのビールのひと罐を妻と半分ずつ分け合うこともあります。夜中眠れずにいるときに、小さなコップで薄いハイボールを睡眠剤代わりにすることもあります。夕方の会食やパーティに参加することはほぼゼロです。変われば変わるものですね。
私は酒が入るとすぐに顔が真っ赤になるタイプですから、若い頃から癌にかかる可能性が高くなると言われてきました。それでも、出版社に勤めている三十七年間は一年ほど禁酒した時期もないではありませんが、基本ずっと飲み続けてきました。
しかし、顔が赤くなることでお分かりかと思いますが、本来酒豪にはなれない弱い酒飲みなのです。「斗酒なお辞せず」というわけにはとてもいきません。父親も酒は嫌いではなかったようですが、来客のまえでもすぐに眠ってしまい、部下の男に頭をぴしゃりと叩かれているような情けない飲み方でしたが、私もその負の遺産を大いに継いでいるようで、バーとかスナックで眠ってしまったことなど、数えきれません。タクシーのなかで昏睡してしまい、交番に届けられたこともありました。電車のなかで寝込んでしまい、終電だったので、中央線藤野の駅まで息子の運転で妻が迎えに来たこともあります。
ただ、オヤジを含めて言い訳をすると、酒に弱くてすぐに寝てしまうような体質だったせいで、酒で寿命を短くすることから逃れたのかもしれません。仕事柄たくさんの酒飲みを見てきましたが、酒に強い人は寿命を短くしているように思います。酒をいくら飲んでも酔いを現わさず、眠りもしないタイプの人は、睡眠時間が極度に短い人同様に命を少しずつ削っていたのだなあ、と酒に弱かった自分は幸運だったのだなと思うことにしているのです。