そして、神戸| ポテトサラダ通信(校條剛) | honya.jp

ポテトサラダ通信 22

そして、神戸

校條 剛

 神戸には月に一回は行っているだろうか。
 現在、京都で一人暮らしの身なので思い立って、よほど遅い時間でなければ、すぐにでも神戸に向かうことができる。夕食だけでも神戸で、なんてことも可能なのだ。阪急京都線で京都河原町から十三、そこで神戸線に乗り換えて三宮へ。所用時間は1時間と少しなのである。

 私は、実は神戸とは昔から縁がある。京都や大阪などよりよほど馴染みがある土地なのだ。というのは、小学校の2、3、4年生を神戸市灘区森後町というJR六甲道駅に近い家で暮らしていたからだ。多感な時代の三年間を過ごした土地は立派に故郷といっていいかもしれないし、自分は「神戸っ子」であると酒席で誇張して話すこともあったのはそうした理由による。
 いまの神戸の街に故郷を見出すことは少ないが、帰りの阪急電車の車窓から、とりおりビルの間から覗く六甲の山並みに故郷の片鱗を感じる瞬間がある。

 しかしである。最近、安田謙一というライターの『神戸書いてどうなるのか』と中島らもの『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』という二冊の神戸エッセイ本を読んでいるうちに私の心の裏に潜む深層心理に偽装があったのではという疑いが急浮上してきたのである。
 つまり、私は自分を「神戸っ子」などとは思っていないし、有体に言えば、神戸で暮らした歳月と付き合った人たちを懐かしくも思っていない。神戸を愛してなんかいないのだ、ということだ。
 結構、これはショックな気づきだった。私は、他人に嘘をついていただけではなく、自分をも騙していたからである。

 そう。少年時代の神戸は二度戻りたい時空ではない。
 私が灘区の高羽(たかは)小学校という地域では一番レヴェルが高いとされていた小学校(もちろん公立)に越境入学したのは、1958年二年生途中からであった。担任は女性の先生でこのときの記憶はほとんどない。三年生ではMIという初老(多分)の男性教師が担任になったのだが、この人は節張った竹棒を常に手にしていて、宿題をやってこないとか児童に落ち度があるとコツンと頭頂部を叩く。本気で叩くわけではないが、痛みが頭がい骨の内部にガーンと響くのだ。私は当時めそめそした情けない男の子だったから、何かで叱られて泣いていて周囲のやさしい女子児童がサポートしようとしても、「ほっとけ」みたいな冷たいだけの言葉しか投げかけられなかった。児童への愛情は露ほどもなく、道具を使って体罰を施すようなこのような教師には、それまでもそれからも一人も出会ったことがない。神戸に引っ越すまえ短時日住んだ尼崎では午前と午後の二部授業だったほど、児童の数が教室から溢れていた時代であるから、一人一人に関心を払うのは無理だったのは分かる。それにしても、まだ神戸では戦前と姿勢の変わらぬ教育者が残っていたのである。

 その時代で覚えている「不思議なこと」の一つに、神戸市の警察が掲げた標語がある。「警笛やめよう」というドライバー向けの標語だった。警笛は自動車が直面する危険を回避するために発する悲鳴のようなものであり、それを鳴らさないようにするとはどういうことだろう。この標語の背景には、おそらく、新興国の雑踏の真ん中を「どけどけ」と走る車のように警笛を鳴らしっぱなしにするような事情が存在していたのではなかろうか。それほど、交通道徳が低い土地柄だったということなのだ。

 神戸という場所は大阪に近いが、大阪とはかなり違った、実は独自のローカル色が色濃い土地柄なんである。いまは建て替わってしまったが、JRの三ノ宮駅に降り立つたびに、そのローカル色を強く感じたものだ。大震災は確かに大凶事だったが、古い風習も随分と変えていったことだろう。先の中島らもの本のなかで、震災前、神戸の高校では男子生徒は丸刈りを強制されており、それに対して父母の反対運動が起きていることが取り上げられている。震災は1995年だから、21世紀に近くなっても、神戸の高校生は丸刈りだったのである。
 学校の意識の旧態依然たる姿勢は、神戸の行政当局が同じスタイルを持っていることを示している。神戸のハイカラさ、おしゃれな部分は外国人が持ち込んだあだ花であって、基盤において神戸は東京など他の大都市に比べるとはるかに後進的な地域だったと思われる。なにしろ丸坊主反対運動は、私が神戸を去ってから、三十年あとの出来事なんだから。

 神戸というところは、ときどきこの町の歴史が抱える闇の部分を垣間見させてくれる。一例をあげるとタクシー運転手のレヴェルの低さがある。大阪のタクシーの乱暴さはよく言われてきたことだが、神戸は大阪のように悪目立ちすることが少ない分、批判を浴びて改善へと向かうのが遅くて、ガラパゴスのようにガラの悪いタクシーが生き伸びていたのである。それは、ネットで「神戸のタクシー」と検索すれば、今でも「かなり悪い話」とたくさん出会うことでわかる。
 私も二度ほど不愉快な経験を持つ。一つは、かなりまえの話で、私が結婚して二年目くらいのことだろうか。神戸に夫婦で旅行に行き、六甲山ホテルのあたりから、タクシーで三ノ宮まで降りたときのことである。くねくねと蛇のように屈曲する山道をタクシーは信じられないほどの高速で下った。どうして、それほど急ぐのかまったく理由がわからなかった。もっとスピードを下げてくれ、と運転手には怖くて言えなかったのである。
 もう一回は、作家の陳瞬臣さんの食事会が神戸の山の手で開かれたとき、大阪に宿をとっていた私は早めに失礼したのだが、会場に忘れ物をしたことに気が付いて、駅前の別のタクシーに乗り込もうとしたが、すべて乗車拒否された。少し離れたところまで歩いて、流しのタクシーをやっと捕まえたのだ。

 神戸は港町である。世界中どこでも港町は暴力と犯罪を養成する場所であった。日本最大の暴力団山口組は出来るべくして出来た。その暴力の根はいまも神戸の闇に横たわっているのだろうか。南京街やサンチカの賑わい、トアロードの気品、北野異人館街の異国情緒と裏表に、夜になると這い出す毒虫たちのように暴力をまとった人間たちが漂っている。
 安田謙一と中島らもが同じようなことを書いているのは面白い。安田はある晩、三ノ宮のホームで電車を待っていたときに、お尻に激しく蹴りを入れられたこと、中島らもは、電車に乗り込もうとしていたときに、ホームを走ってきた男に腹を強く殴りつけられたことを書いている。両者ともまったく理由に思い至らない。加害者のほうに何か不愉快な感情があったというだけなのだろう。こういうことは、他の都市では考えられない。

 私が通っていた小学校のことを少し述べたが、この小学校の児童たちの柄の悪さというのも特筆ものだった。クラスにはかならずボスがいて、少なくとも男子はそいつとその取り巻き立ちに抑えられている。かれらはズボンのポケットに必ず肥後守というナイフを忍ばせていて、意に染まないことがあると「しばくぞ」と凄むのである。学校帰りの道で気にくわないやつを待ち伏せしていることも多かった。いや、それどころか、途中のどこかでたむろしていて、誰でもいいから弱そうなやつに因縁をつけようと立っていることもあって、帰り道は冷や冷やしながら歩いたものである。
 ついでに言うと、この小学校ではすでに自校式給食が実施されていたが、神戸の次に移った名古屋、そのあとの東京の給食に比べて、格段にお粗末な内容で味もまずかった。私が一番苦手だった料理は、豆腐とごぼうの煮物で、それなのに主食はごはんではなくパンなのである。食べ残しは各自で持ち帰る方式だったから、私は食べ残した料理を容器にいれたままの袋を下げて帰宅したものだ。残した料理から染み出た醤油などの色が白い袋を汚している光景をまだ思いだすことができる。他県の人たちが神戸を「神戸牛」「西洋料理」「中華料理」の美食の町と思い込んでいた部分は、神戸の上層部分であり、一般庶民の台所はかえって他の大都市より劣っていたのだと思う。
 東京に戻ってから、神戸のことを聞かれるたびに、「ガラの悪い町」と答えてきた。私はいつのころから、その思い出を封印して、神戸を美化する方向に進んでしまったのだろうか。

 そして、現在。ながながと悪口を書いてきたが、やはり、神戸が好きなのである。もちろん、食べ物の美味しい、100万ドルの夜景がきらびやかな、異国情緒に溢れた、神戸の上澄みの部分が好きなのである。