東京のバス | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 200

東京のバス

幼稚園生時代、小学校へ入りたてのころだったかも知れないが「夏坊は何になりたいの?」と訊かれれば、必ず「バスの運転手」と答えていたのを思い出す。

昔、都内を走っていたバスは、今の都バスの三分の一くらいの大きさだったろうか。ドアは無く、鎖だったかスチールの棒だったかがドアの替わりをして、皮の大きな蝦蟇口<がまぐち>のカバンを腰の前に垂らし、その中に切符の綴りをゴムバンドで巻いて“下敷き”を加工した板でとめたものや、切符切りの鋏や、得たお金を入れた制服姿の車掌さんが、バス停を出たり、入ったりする時にドア代わりの鎖を開け閉めしていたっけ!
私は、遠距離通学だったので、小学校の往復にバスを利用していた。そのころのバスは、混んでいた。バス停に並んでいても私はわざと最後尾に並び直し、溢れかえる車内からはみ出し乗っていた。戸の両脇に手摺りがあり、そこに掴ってぶら下がるのである。身体のほとんどは、車外にあった。

日本の乗合バスの歴史は古い。1873年英国の ロバート・ダビットソンが電気自動車を製造、1886年にドイツでガソリン自動車が登場した。その17年後の明治36年9月、京都で京都乗合自動車二井商会が設立され、二人乗り蒸気自動車を6人乗りに改造して、初めての乗合自動車、バスが日本に誕生した。東京市電気局が乗合バスを開始したのが大正12年であった。この年、関東大震災によって東京の市電が大打撃を受け、市電の代替輸送機関としてバスを利用したのである。バスの色が黄色だったために「黄バス」と呼ばれた。また落語家四代目橘屋円太郎が、その演目によく使用したため「円太郎バス」とも呼ばれた。
子供のころに東京で過ごした人や、私より年上の人ならば知っているかも知れないが、私は中野の駅で“木炭バス”に乗ったことがある。昭和12年ころから「贅沢は敵だ!」の考えから木炭バスが造られた。バスの後ろに窯がむき出しに添え付けられたバスで木炭をエネルギーとしていた。昭和24年頃まで走っていて、中野から鍋屋横丁のお婆さんの家まで乗った記憶がある。3歳くらいのころだった。

バスでは、トレーラー・バスがあった。この話をすると、皆、トロリーバスの勘違いじゃないか?と、よく言われる。運転する車両が客車両を引く、連結されていてデカくて長い。出入り口が2つあって車掌さんもふたり居た。日野自動車が製造したらしい。現在、コンテナを載せて走るトレーラーのバス版と思ったら想像がつくだろう。いっぱいに人を乗せたら150人乗れたという。
トロリーバスは、知る人が多い。都電と同じでパンタグラフがあり、電気で走る。ボンネットの代わりに客車両の中にエンジンを載せたバスもあった。

そうだ、こんなことを書いている場合じゃなかった!
バス通勤のための“東京都シルバーパス”の切り替えをしに行かなきゃ!