ニューオリンズのざりがに | honya.jp

閉門即是深山 98

ニューオリンズのざりがに

昭和30年代の中ごろまで日本人は、現在のように世界の各地に行って観光などは出来なかった。今のように観光目的でパスポートやビザなどは発給してくれなかったからである。確かに、日本人のおおかたが貧乏で、1ドルが360円に固定されていた時代に、飛行機や船で海外に行けることなど夢のまた夢であった。それとは別に、パスポートやビザの発給の条件には、仕事のため、留学のためという目的を示さねばならず、受け入れ先の企業なり学校なりの証明が必要条件になっていた。観光などは、贅沢極まりないと発給されない時代だった。

観光目的でも良いとなったのは、昭和30年代の中頃か後半になってからだと思う。観光が解禁され、ハワイに行こうと飛行機の切符代を見たら初任給の5倍から10倍の値段が付いていたのには、びっくりした。今の値段に換算すると、ハワイ往復エコノミーで100万円に近かったのである。もちろんジェットなどは無く、ハワイまでプロペラ機である。機体も小さく、通路は真ん中一列に伸びているだけで、左右には3席の椅子が両側に並ぶ。今の新幹線の席を思い出していただければ、それに近かった。
海外にビジネスではなく、一般人が遊びに行くなどは、憧れであって、現実ではなかった。今からたった50年前の話である。そのころは、海外に観光に行っても持ち出し金の制限があった。ハワイで安いオメガの腕時計など買ったら、後は、マカデミアンナッツの土産物のチョコレートを10個くらいと、免税のウイスキー3本と安物の香水と外国たばこで、財布の中のドルは、空になった。クレジットカードなどは、存在しなかった。決まった日本円を銀行に持って行き、決められた範囲のドルと交換する限りである。たまに粋な人がいて、海外に行くといえば「みやげは、いらないよ!」と、言って、餞別にドルをくれたりした。

祖父の時代、明治、大正、昭和の初めまでは、国内旅行も同じで、金銭の制限やパスポートの発給などはいらないものの高価で、なかなか旅などは出来なかった。そこで、作家であった祖父・菊池寛は一計を案じ各地で講演をおこない、友人作家や若い作家が金の心配なく旅行が出来るようにした。地方で今でも催される講演会は、その名残りであろう。祖父は、地方まで文藝春秋を知らせる宣伝のため、また作家たちの見聞を広げさせるため、また、地方の読者に作家を知ってもらうために、この企画を進めた。宣伝でもあった。

時代が経って戦後になっても新婚旅行のメッカは、関東人にとって温泉地熱海が一番人気であった。それほど日本人に旅は、一番のイベントで、高価なものであったと思う。

さて、22年前のことである。
時代の流れが変わり、誰でも廉価で海外観光旅行を楽しめる時代になっても、昔の習慣は、残っていた。海外旅行は、なかなか出来ないものであるという習慣である。
故に、私のいた出版業界は、コミュニティを組んでいた。もちろん、旅のためではない。それが、日本書籍出版協会、通称ショキョーや日本雑誌協会ザッキョーや日本雑誌広告協会ザッコーである。それらは、各出版社や広告会社で組織されていて、年に一度研修旅行と称して組合会社の社員を集め海外旅行が企画されていた。まぁ、いってみれば業界の慰安旅行である。ただし、組合費などからの出費なので、一応研修旅行と名が付き、スケジュールの中に何となく研修旅行なのだなぁ、といわれるような内容、例えば海外で有名な出版社や報道機関への訪問などが書かれていた。この旅は、各社によっても違うだろうが、自分の社から「長らくご苦労さん!ご褒美に海外旅行に行かせてあげるからね!帰ってきたら、もっと働くんだよ!いいね!」という脅かしを含めた労いの賞品だったのだろう。
我々の旅行は、講談社、新潮社、文藝春秋、小学館などの出版社と電通、博報堂、大広などの広告会社からの18名が参加することとなった。文春からは、私である。
行き先は、アメリカ。日程表には、ニューヨーク、カナダにてナイヤガラ観光、アトランタ、ワシントン、ニューオリンズ、サンフランシスコより日本へとある。
ちょうどこのブログが配信された時の22年前に駿河台にあるザッコーの会議室に、この18名が集まった。
以前このブログにも書いたが、学生時代に私がバンドを組みドラムでアルバイトをしていた後、何十年もした今、再びドラムを始めたいと思うきっかけになったのが、この研修旅行でニューオリンズに行った時に夜入った一軒のジャズ・バーで杖をつきながらも素晴らしい太鼓を打っていた老人の黒人ドラマーに憧れを持っていたからである。
このニューオリンズのシンボルマークが「ざりがに」だった。我々は、この時の旅行のメンバーの名前を「ザリガニの会」と名付けた。
メンバーは、亡くなった人もいれば、地方の里に移り住んだ人もいて、現在は、12名程に減った。それでも、20年以上も毎年、年に何度かの呑み会やゴルフの会、一昨年は、20周年記念として台湾に旅もした。今年は、誰が言い出しっぺか知らぬが、金沢の旅も企画された。メンバーのひとりが大腸癌を患っての術後ということがあって、その計画は、先送りされたが、良き友達である。